りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ: 実家のこと


1人暮らしになったせいもあると思う。
最近、休日や夜、ぼーっと過ごす時間が多くなった。
以前なら友人と電話したり、会ったりして暇を感じる事は無かったが、
この数年のうちに、人と接触するのがおっくうになり、
1人でいる方が楽になってしまった。

海外ドラマに夢中になっている時は、時が速く過ぎるのだが。
その後の疲労を取るまでに時間がかかり、
目から体調不良へ、不安感へと悪循環になる。
なので、今は観たいのをぐっと我慢して、休息中。

空いた時間に、やる事があると気が紛れるが、
これまでこんな暇な時間を感じる事はなかったなと気が付いた。
子育て中もそうだけど、空いた時間は母の電話相手をしていたからだ。

それも長い間。
今から出勤で、急いでると言っても電話を切ろうとしない母。
一度話し始めると、何時間も1人で話しまくる。
話さないと不安だったのだと思う。
が、相手をする私にはストレスだった。
ただ、色んな親族の情報、父や弟家族の事が良くわかったし、
たまには、私も愚痴を言って(あまり聞いてくれなかったが)発散できたので
仕方なくも、話し相手になっていた。

誰にも話せない夫のことは、母にしか話せなかった。
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あまりに長電話になると、父が後ろから怒鳴りつけ突然電話を切られた事もあった。
母と話した後は、いつもイライラが残っていた。
母の表の顔と裏の顔が違い過ぎて、
裏の顔を私に吐き出して、表では物わかりの良い良い人を演じていた。

一番私がイラついたのは、
娘の感情はどうでもいい、娘は何をしても気にしないもの、
いくらでも利用してもいいという親の差別的思い込みだ。

息子の感情はいつも気にして、気を使い、冷たくされても
裏切られても大事にしていた。
私は母の都合の良いストレス発散の道具だったと思う。

勿論、抵抗し、電話にでない、断ることもあった。
すると、何て冷たい娘なんだ、親を泣かせるなんてと非難された。
それも、私にだけ見せる顔だった。
色々そんな事が積み重なり、私が大爆発したこともあった。 続く




今頃になって、身内二人との別れがまだ心のどこかに影を落としていると感じる。 
秋を感じ始めたせい?
1人暮らしになったから?
変な不安感や焦りが沸いてくる。
あの世はあるのだろうかと答えのない考えが浮かんでは消える。

弟から久し振りにラインがきて
色々忙しかったらしいが、初盆の話には触れなかった。
父の様子を伝えたかったらしい。
以前から目が見えにくいと訴えてはいたが、
眼科を勧めても頑固に聞かなかった。

やっと眼科に行き、白内障と言われたらしい。
母が手術した時に、父も一緒に診察を受ける様に何度も誘ったのに
聞き入れないまま、今日まで進行していたのだろう。

白内障は老化現象だから、なるのが当たり前のもの。
手術は簡単だし、目が若返って生活の質も良くなる。

父は老眼だと言って聞かず、弟が困っていたそうだ。
脳が老化して頑固、偏屈になってしまった。
それでも、目が見えないと不便で、手術を受ける意思はあるという。
高齢なので危険はないのかが、気になる。
内科で検診を受けてから受ける事になりそうだ。

手術の時期は秋だ。
手術の前後、誰かが身の回りの世話をしないといけないかもと弟が言う。
もしかしたら私にしてほしいのだろうか。

家事したくてもできる様な状態の家じゃない。
私の寝る部屋も物置にされているのに。
普段、弟が少しでも片付けてくれたらと思うけど。

最近、実家で過ごすのがハードで、体力に自信が持てない。
母がいた頃の実家なら、すぐに帰ったと思う。
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母が白内障の手術をした時のことをよく覚えている。
入院したので、私が末っ子をつれて新幹線で帰省した。
父は今よりずっと元気で手もかからない人だった。
退院の日は迎えに行き、帰宅した日はお祝いをした。

その時、弟の奥さんは完全無視で、退院の手伝いどころか
夕食に招待しても無視された。
その後、病気で寝込もうが入院しようが、何があっても
そんな調子だった。
さんざん母に助けられ、利用してきたのに、
恩返しと言う気持ちも全く無い人だった。

まさか、こんなに早く逝ってしまうなんて思ってもいなかったから
思い出すのはそんな事ばかり。
もっと良い思い出を残してくれたらなあと。
自分も、人にそんな思い出を残さないようにしなくてはと思う。

去年までは、自分はもっと動けると思っていた。
何故か、全然行動できない自分が嫌になる。
先に予定を決めてしまえばいいのに、
それもストレスになるので、
思い付きで決行する方が自分に合っているのかも。

気候が悪い時期はじっとしているし、
コロナも怖くて飛行機や新幹線の空いている時期にとか、
春と秋にと思っていると、今度は用事が入ってあっという間にタイミングを失う。

いつのまにこんなに引きこもり体質になったのか。
不安症がまだ残っているのかもしれない。



高校野球もついに決勝戦。
どちらかを応援していると、終わるまで神経をすり減らす。
負けていたり、接戦だとずっとハラハラする。
終ってしまえば、嘘みたいに忘れてしまうけれど
観戦している間だけでも、刺激になるのはいいと思う。

夏の楽しみの一つが終わる。
夏休みが終わると、物寂しくなる。
もう子育てしていないのに。
夏が終わると、時があっという間に過ぎていく気がする。

父はあんなに野球が好きだったのに
今では、全く興味を持たなくなった。
信じられない異変だ。
テレビを見ても、言葉や画像を理解する力が衰えて
ついていけないらしい。

脳の老化は、好きな物、趣味まで奪ってしまうのか。
先日、100歳でもまだ化粧品販売の仕事を続けている女性が
ギネス記録に載ったニュースを見た。
とても100歳とは思えない、しっかりした話し方、
美容部員をされていただけあって、肌も綺麗で、
赤い口紅がお似合いで、お化粧も綺麗にされていた。

100歳であそこまで脳も身体もお元気で、綺麗な人はなかなかいないだろう。
今も仕事をしていることや、美への追求、努力もあってのことだろうが、
どんなに気を付けても、病気になる時はなると思うのだ。
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この人の様に生きられるのなら長生きしたいなあとは思う。
今の自分では、無理なのは確実。
父を見ていると、毎日何か作業はしている様だけど
あんな寂しい老後を過ごすなら長生きしたいとは思わない。
(夫よりは長く生きる予定)
子どもや孫が寄り付かなくなったら終わりじゃないか。
これまで母がいる間、孫たちと色々楽しんだからもう満足?
母がいなくなった途端、母だけに見せていたDVを
私に向けて来た。

元気に長生きしても、友人はほとんど亡くなるか、病気かで、
話相手もいなくなっている。
もっと子や孫を可愛がり、素直に甘えればよいものを。

老いては子に従え、は、正しい。
全ては自分に返ってくる。



ドンドンと外から聞こえる花火の音。

花火の見える部屋はエアコンが無くて夜でも異常な暑さ。 
数年前までは窓から見ていたのに、ついに耐えられない暑さになってきた。

町内会の夏祭りも復活して、盆踊りの参加を募る回覧板も回っていた。
そうか、今年から色んな行事が復活している訳だ。

昨年、町内会の班長をしたが、何も仕事がなかったのはコロナで中止だったからか。
そういう意味では、楽で良かったな。
子ども会の役員だった時は、ラジオ体操、廃品回収、町内会の運動会、
夏祭りの準備、盆踊り参加、クリスマス会などなど、年間を通して色々やっていたなあ。
朝の交通安全活動もやった。子ども達のお陰で、懐かしい思い出が沢山ある。

季節ごとの行事は、やっぱり風情があるし
ほのぼのとして、子ども達にとって良い思い出になる。
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花火と言えば、ちょっと残念な悲しい気持ちにもなる。
また母の事で申し訳ないが、
母と実家で会った最後の夏、実家の二階から花火が見えた。
母は「来年は皆でここでバーベキューしながら見ようね」と笑顔で言った。
あの時、簡単に実現すると思っていたから、
帰宅してから子ども達に翌年は皆で帰省しようと話していた。

その後、実家に帰っても母は家にいなかった。
二度と母は二階から花火を見る事は無かった。
コロナ禍で行き来が出来ず、帰省しても面会が困難でなかなか会えなかった。

今、夏に実家に帰って花火を見ようという気分にもなれないし、
暑い中帰る気もせず、気楽に泊まれるような家ではなくなっている。
子ども達は誰も泊まりたがらない。ホテルに行く。

もっと早くに母の希望を叶えていたらなあと後悔する。
父が先で、母が残っていたら今年も花火を一緒に見ていたかもしれない。
後に残る親の性格によって、こんなに実家が遠くなってしまうなんて。

弟も何を考えているのやら。
初盆のはずなのに、何も言って来ない。
招待されないと行く事はできないし、こちらから催促したくない。
呼ばないなら早くそう言ってほしい。

都合の悪い、隠したい何か訳があるといつもこんな感じだ。
奥さんがいてもいなくても、こういう所は変化なしだ。
この件も常識ではありえない態度だけど
弟と父には、もっと驚く困ったことがある。この件はまた後日に。



インターネットのお陰で、県外の高校野球の試合も観れるのは有り難い。
興味ある決勝戦をライブ配信で観ている。
ファィヤースティックを買った時は、その機能をよく知らなかったが、
無料のアプリを使ってテレビ画面で色んなものが見られる様になった。
 
予選でこんなに楽しめているので、
いざ甲子園大会が始まったらどうなることか、と
自分で自分に突っ込みを入れている。
地元の贔屓のチーム?は決勝で負けてしまった。
出場する県代表は、良い線までいけるのではと期待している。

何でもいいから、ささやかな楽しみがあるのは良いこと。
暑くなくて、体力があれば甲子園球場に行きたいけどなあ。
バテて倒れたら迷惑かかるからやめておこう。

甲子園球場はアルプススタンドまで屋根を広げるそうだ。
何もしないよりはましだが、選手の暑さ対策を考えてほしい。
屋根を広げるのも2年後?とは遅い。
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高齢者が家の中で、熱中症で亡くなるニュースが増えて来た。
エアコンの電気代を節約しようとしたのか、
暑さを感じにくくなっていたのか、他人事ではない。
やっぱり父の様子が気になってくる。

7年ほど前の夏に、母が足の手術で入院した時、
2週間ほど父の世話をしに帰った。
実家に入ると父は冷房と間違えて煖房をつけ、うたた寝していた。

老化すると色んな事で、いつ命を落とすかわからない危険を招く。
野球が大好きだった父は、今は全く興味を示さない。
一緒にプロ野球観戦も行ったことがあるし、
テレビで野球を見ている時は、声をかけても聞こえていないほど夢中だった。

テレビ画面や言葉を理解するスピードについていけなくなったと父は言う。
老いによって趣味が消えていくのは悲しい。
若い頃の父の姿が今の衰えた父に塗り替えられてしまうのも寂しい。


これから夏の異常な猛暑はどんどん酷くなっていく事だろう。
そのうち40度なんていうのが普通になっていくのだろうか。
部活や体育の授業、各競技の試合も命がけになってくる。
根性論は辞めて命を守る事を第一に考えてほしい。

ほんの数分外に出ただけでも、やばいという感覚がする。
そうなると、父のことが心配になってくる。

もっと頻繁に帰省して面倒を見るつもりだったのに
実家は物があふれ、私の寝る場所も確保できない状態。
料理をしたくても、台所の掃除から始めないとできない。
それが一日かかる。
父のペースがあるので、それに合わせているとバタバタする。
台所だけではなく、お風呂、トイレもそう。
以前、あんなに綺麗に片付けたのに、
父がめちゃくちゃに変えてしまった。
結局、弟夫婦が見て見ぬふりをしてきたツケを私が払うことになる。

で、何も知らない世間や親族は、弟が小まめに良く世話をしているねと労う。

嫌なことから逃げて目をそらすのは弟夫婦の癖だった。
母も不満を抱え、弟嫁の病気も手遅れになってしまった。
その都度、弟は反省したと言うのだが、
そう簡単に人は変らない。
私は夫に変わるふりをされて何度も裏切られた。

トラブルを起こし、会社をくびになったり、
人から嫌われ孤独を感じると「これからは、家族の意見を聞いて家族のそばにいたい」
などと臭い台詞で騙していた。
家族からの批判をかわし、その時だけ家庭を逃げ場に使う。

でも、また次のターゲットが見つかるとすぐに元通り。
勝手な行動をし、また家族の意見は無視か脅しで黙らせる。
もううんざり、もう信じない。
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弟は夫とは全然違い、もっとまともだが、
嫌な事から目をそらす癖は、変わっていない。

とは言え、父のそばに誰もいないよりは安心なので、文句は言えない。
私がずっと両親の世話をしていれば、
もっと清潔で、きちんとした生活をさせられただろう。
母は最期まで父に苦しめられた。
弟夫婦がもっと母に優しくして家事を助けていたら。
と、いくら私が思っても今更仕方ない。

母亡き後、実家がこんなに居心地悪くなるとは思わなかった。
父に最後に会った時には、家の整理をよろしく頼むと言われたが、
いざ私が実家にいると、また機嫌が悪くなるかもしれない。
とは言え親は親。心配だ。
不衛生な家の中で、この猛暑の中大丈夫だろうか。

もっと頻繁に帰りたいが、こちらの仕事、用事もあり、
交通費や色んな経済的負担、この暑さ、
実家の居心地の悪さを想像すると行く気が失せる。
私の居場所、スペースすら無い。

母が残っていたら、全く違っていたはず。
父はどんどん負の遺産を増やしていく。
それが母の心残りだった。
自分の方が長生きすれば、父の残した負の遺産をさっさと処分し、
私達があとから困らない様に整理したいと言っていた。

もうすぐお盆なのに、父も弟も私の事は頭に無さそう。
こっちも、子ども達が帰省する実家と言う立場。
家にいた方が楽しいのは確か。

期待されていないのに、勝手に気にするのも無駄かも。
実家の事を考えるのが、何だか馬鹿らしくなってきた。





夜なかなか寝付けない時は、YouTubeで眠りを誘う癒しの音楽を聴きながら寝る。
最初、聴いた時は少し怖かった。
何故か、母を看取った場面が蘇ってくるのだ。

病室は薄暗いライトでほの暗く、
弱くなる母の呼吸をじっと見ていた。
紫色の様なきらきらした色の光に包まれて、
幻想的な音楽が流れていた様な、
厳粛で綺麗な光の中にいたようなイメージが残っている。

実際にはただの病室で、そんな事は無かった。
が、思い出すとその映像と音楽があったかのような気がするのだ。
癒しの音楽がその時の音楽に似ている。

だから、母を見送るシーンが何とも言えない幸せな美しい体験に感じた、
別れのシーンだったのに、号泣もせず、涙は少ししか出なかった。
母がこの世を卒業し、次の世へ旅立つのを
「お疲れ様、よく頑張ったね」と見送ったような気持ちだった。

(私の妄想だと思っているから誰にも話していないが、
あの時、病室の天井の角から強い視線を感じた。
怖くてそっちの方を見なかった。
誰かが見ている気がして、自由に動けなかった。
今思えば、馬鹿馬鹿しい、もっと好きに動けば良かったのに、
角をじっと見て、何も無いのを確認すれば良いだけのこと。
と思うのに、あの時はそれができなかった。
自分も変な精神状態になっていたのかも。)
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あの時より、今の方が寂しさを感じる。
不思議なのは、母を見送る前後の記憶が部分的に飛んでいること。

病室に泊まる事になって、夕方部屋に入ってすぐに
子どもから電話がきて、話をしたことも忘れていた。

母が亡くなってから、葬儀までの行動も部分的にしか覚えていない。
徹夜だったのに、眠気もなく元気だったことだけ覚えている。

あれから時間が経ち、思い出す事も減って来た今、
癒しの音楽を聴くたびに、あの病室が蘇ってくる。
そういう別れができるというのは、幸せなことだ。
事故や事件で悲惨な別れをするのは不幸で残された人にとっても辛い。

安倍元総理が亡くなって1年。
あの時、思ったのは
「ベッドの上でなくて、汚くて冷たい外のコンクリートの上に倒れ、亡くなるなんて気の毒すぎる。」
だった。
家族に見守られてベッドの上で静かに息を引き取るのは
誰でも望む事だけど、なかなかそうはいかない場面があるのは辛い。

元気なうちは、自分の去り方は誰にもわからない。
だから怖いのかも?



子どもが自立し家を出た後、部屋の模様替えをした。
それぞれが自分の物や家具を運び出した事もあって
気分的にがらんとした空間になった。

とは言え、物が減ったのは快適だ。
掃除も楽。
やっと自分の部屋ができた。

結婚以来、初めての自分の部屋。
誰もいないんだし、家全部が自分の部屋みたいなものだけど。
(夫はいないものとしている)

模様換えのついでに、母の遺影コーナーを私の部屋に移した。
寝る時に一緒にいる方が良い気がするから。
それと、母の事も夫から守りたいという意識が強くある。

夫が母の遺影を見て、反応する時を思うと憂鬱になる。
わざとらしく悲しむふりをしながらも、嬉しそうな表情をするのを
私は感じ取ると思う。
そして、すぐに父はどうしているのか、まだ生きているのかを
またまた心配するふりして、聞きだすだろう。
まだ元気とわかると、がっかりするのもバレバレだろう。

そして母から何か相続していないか探り、急に帰宅が増えてきて
私に執着してくるかもしれない。お金目当てで。
何も無いと言っても、隠していると信じないだろう。
夫がそうだったから。
考えると不快になるので、遺影を私の部屋に移した。
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一昨日、熱帯夜で眠れず、昨日は気分がずっと悪かった。
新自分部屋が家の中で一番暑い。
なので、試しに昨日は、リビングに寝てみた。
ごろ寝で熟睡はできなかったけど、長く寝られて
今朝は気分良く起きることができた。

朝、カーテンをあけていると、
自分の部屋の方から、私の名前を呼ぶ母の声がした。
えっ?今のは?聞き間違い?と思ったが、
すぐ部屋に行き、母の遺影に向かって挨拶をした。
昨日、部屋で寝なかったから心配したのかな?

聞き間違いだろうが、母の声が久し振りで、
とっても懐かしかった。
あんな風に、呼ばれていたなあと思い出した。
最近、母の若い頃を見て見たくなる。
写真でしか見られないが、私の幼い頃、一生懸命子育てしていたのは
伝わるし、記憶もある。

昔は今よりも家事、育児は大変だったし
女性の立場も弱かったし、やりくりも大変だったろうし、
苦労の多いことだったろう。
でも、頑張ったね。私よりずっと強くて充実した人生だったよね。
と労う気持ちが募るようになった。

生きているうちに、そう言えば良かった。
亡くなる前に、よくがんばったよね、って。
でも、半分毒親に思えた部分がそれを邪魔していた。

毒親の思い出は横に置いて、
母の人生を1人の女性として想像し、記憶をたどり、
どんな思いで生きて来たのだろうと、
思いを巡らせることも多くなってきた。
自分がこれから一人でどう生きていくか、
何か参考になり、励みにしていく事もあると思うから。





昨日外を歩いている時、急に母に会いたくなった。
時間が経つにつれて思い出す機会が減り、寂しさも薄れて来ていた。
長生きして寿命を全うした、最後のお別れができたという納得感があるからこそだろう。
若い人の急な別れならこうはいかない。

残された人を苦しめない為には、「寿命を全うした」的な終わり方ができればいい。
でも、自分がどんな風に人生を終えるのかはわからない。
母は「家族に見守られながら、病院のベッドの上で~」が理想だと言っていた。
私一人だったけど、ちゃんと見送ったから良かったかな。
ただ、母本人は、父よりも先に逝くのは嫌だったようで、
今はまだ早いという悔しさを抱えたまま、逝った。

悔しいと思いながらこの世を去ったのが本当に可哀想だった。
(自分も絶対そうなりたくない)
最後の会話では「後の事は何も心配していない」と思い残す事は無いと何度も言っていた。
が、それは本心ではなく、自分にそう思い込ませていたのだと思う。

そんなあれこれを久しぶりにふと思い出した。
母に「あの世はどんな?」
「こっちの様子を見てる?どう思う?」
などなど、以前の様にお喋りしたくなった。
何て答えるだろう。色々言葉が聞こえてくる気がするが、
それは私の脳内で作られた独りよがりな言葉だとわかっている。
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母が生きていたら、そしてあの世でも、きっと弟のことを心配しているだろう。
可哀想に可哀想に、と。
それを聞いた私は、娘は心配じゃないの?老後破産予備軍だけどねと言って見たり、
相変わらず、あの世にいっても娘はどうでもいいのねなどとすねてみたりと、
あれこれ想像していた。
そして、今はもうそういう母へのストレスから解放されたんだなと改めて感じた。

それでも、母と一緒に買い物したり、
お喋りしたくなったのだ。
考えてみれば、生きていたらかなりの高齢。
そんな事、もうできなくなっているかもしれない。
いつまでも若い時の親の姿のままで思い出す自分は、まだ子どものままなのかも。

父が長生きしてくれているのは嬉しい事だが、時間が経つほど実家は荒れ放題になり、
泊まる事もできなくなっている。
何となく、弟は私が実家を掃除したりすることを嫌がっている気がする。
どっちみち、もう手がつけられす、無理すると自分の体調まで悪くなりそう。

いくら父が1人で暮らせるとは言え、
食事、衛生面を考えると、介護サービスや施設などのお世話になる方が安心。
だが、弟が嫌がる。
面倒なのだそうだ。手続きや長男として連絡が来たり、自分がする仕事が増えるのが嫌だと。
こういうところが冷たい。
何かがずれている弟。

最初の予定はどんどん変わっていく。
そんな事もあって、母と一緒に愚痴りたくなったのかもしれない。




飾ってあった沢山の奥さんの写真
家族仲良く笑顔の楽しそうな写真ばかり。

母が亡くなったばかりの1人ぽっちの父を置いて、
家族でお正月旅行に行った時の写真もあった。
この時の笑顔の裏で、私が父の所に急いでかけつけた事なんて
何も気にして無さそうな顔だった。(家は荒れ、食べ物も何もなかった)
一瞬暗い気持ちがよぎったが、打ち消した。

遺影について聞いてみた。
「これ、別人みたいに見える。亡くなる少し前、旅行に出る前の写真なら
この時すでに悪化していた訳だよね。写真にそれが出ているね」
と言っても、弟はピンときていない風。

その写真は、まるで老婆。実際の年齢より10歳は老けて見えた。
顔色は悪く、目に力はなく、丸かった顔はやつれ、背中も曲がっている。
あきらかに、どこか病気では?と疑う様な。

弟にこの頃の様子を聞いてみた。
「本人は、やせてきたのを喜んでいたよ」と笑った。
弟は当時の顔を見て、全く病気とは思ってもいなかったらしい。

弟嫁は、病院嫌いで、検診にも行っていなかった。
理由は、過去の検診で、色々異常値がでており、
かなり太っていたので、医師から運動や、痩せる事を指導されたそうだ。
それが嫌で、検診や内科的な病院に行くのをやめたそうだ。
人から指導されるの大嫌いな人だったから。
自分の為なのになあとは思うが、甘く考えたのだろう。そこが仇になった訳だ。
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ダイエットも何もしないで、急に顔が痩せて来たら、
病気では?と心配するものだと思うが。
実際、具合がどこか悪かったはず。
だるさを訴えていたというが、いつもだるいと言うのが口癖で
やりたくない事があると、だるいと言って逃げていたらしい。
なので、いつもの口癖だと弟は聞き流していた。

やつれても、本人が痩せたと喜んでいるし、
旅行にいくのをやめないから、元気だと信じていたのは仕方が無いこと。
旅行に頻繁に行き始めたのは、数年前の母の入院からだ。
お見舞いに行く事や世話をする事から逃げる為に。

その頃から発病していただろうと医師の予想。
ちょっと倦怠感があっても、自分を誤魔化し、
現実逃避で無理をしてきたのだろうか。

夫も似た様な面があるのだが、
自分の思いたい様に思い込み、頑固に我儘を通す。
それが周囲を巻き込み、迷惑をかけるが本人は逃避したまま。
自分に言い訳をつくり、信じ、正しいと思い込む。

それが他人でなくて自分を騙すとこういう悲劇になる。

あの写真を撮った頃、
一度、検診を受けて見たらと誰かが忠告していたらどうだったのだろうか。
後からこうすればと後悔しても仕方が無いが。

頑固に忠告を聞かず、結果は同じだったかもしれないが、
コロナ禍が一番酷かった時にも、
反対を無視して、旅行に出て行った人なので
私の方が、向こうで感染して何かあるかもと覚悟をしていたところはあった。

弟は、奥さんと似た面があり
大丈夫だよ、心配し過ぎと、甘く考える癖がある。
人の病気の訴えも、仮病扱いしたりするので、
想像力に欠けていると以前から思っていた。

そういうところ、母の時に後悔していたはずなのに、
何度も同じ失敗をして、結局人は変わらない。

写真は、もっと若い元気な時の物にすればよかったのに
と奥さんがあの世から文句言ってるのでは?なんて思いながら
「また来ますね」と仏壇に声をかけてきた。
人を家に入れたくない(掃除や接待が嫌いで)人だったから
嫌がっているかもねと思いながら。

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