りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ:つぶやき > 母の病気~悪性リンパ腫


私はつくづく電話が嫌いなんだと思う。

母のことで親族から携帯に着信がきても
話したくなくて、無視している。
弟が勝手に電話番号を教えていた。
断われなかったのだろう。

電話が嫌いというより、相手を選ぶのだ。
入院してから、母とは毎日電話でよく話した。
会えなかったのに、電話をしていたから
毎日会っていた様な気がする。
電話をしていた感覚ではなく
母の魂と向かい合っていたような感覚だった。

今、入院中に母が書いていた日記を
パソコンで書き起こしている。
日記は途中から力尽き、書けなくなっている。
短い期間だが、色々母の辛い気持ちが書いてあった。

これは、私がノートを送り、書く事を勧めたもの。
もし、そうしてなければ、何も残っていなかったと思う。

母に、心に望むこと、口では言えない事を
ノートに書いて吐き出してみたらと勧めた。
退屈で苦痛な気分が少しでも紛れたらと。

亡くなった後に家族に読まれる事を意識してか、
「毎日書いているよ。落書きよ」と笑って言っていた。

自分のお骨の行き場を、一番心配していた。
父のこと、母の望む場所に納骨する気が無い。

母は、遠い僻地の父の実家の墓に連れて行かないで、と生前から言っていた。
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私も弟も、実家の近くに納骨して、母の希望をかなえようと思っている。
父が先なら、簡単だったが、
父が残ったので、不便な誰も行かない山奥の父の実家の墓に
母のお骨も自分のも入れて当然と言っている。

自分の妻子より、破壊寸前の空き家の実家に執着し、
誰も参りにこない山の中の墓に全員入るべきだと決めている。

私たちが墓参りにいくには大変な場所。
先祖に執着せず、頻繁にお墓参りのできる近い場所に
納骨しようと言うと、そんなのは墓じゃないと言い出す。

母が可哀想だ。父が亡くなった後で
移動すれば良いのだが、とても面倒。

母の日記には、何度も、それについて書いてある。
父が亡くなるまで、納骨しないでほしいみたいなこと。

私は母に約束している。絶対に母の希望を実現すると。



 に

やっと苦しみから解放され、自宅に帰って来た母。

さあ、これからやる事がある。
来客の応対、書類の諸手続き、家の片づけ、父のこれから。

父が心配なので、もう少しいて手伝おうと思っていた。
葬儀が終わり、母の祭壇が出来たその日の夜だった。

父が、いきなり「帰れ」と言い出した。
「え?これからまだやる事があるでしょう。まだ残るよ」と言うと
「行きたい所(僻地の空き家の父の実家)があるんだ。お前がいると気になって行けない。」
「ずっと邪魔で迷惑だった。自分の食事位作れる。わしは下宿人じゃないぞ」
と言い出した。

普通なら、「奥さんに先立たれたショックで、認知症が急に悪化して
おかしな事を言いだした。被害妄想がでてきた」
と思うところ。

確かに、歳相応の認知症もあるし、脳が老化していることは確か。

だが、父は、元来こういう人なのだ。
いつも温厚なふりをしているが、若い時から差別主義者。
それも、非人間的なレベル。

母が今まで愚痴っていたことはこれ。

ついこの前も、病気で弱っている母に対して
暴言吐いて、寒い中、追い出そうとした。

典型的なDV野郎だ。

私の差別的な育て方を見ても、わかる。
長男さえいればいいみたいな、女は奴隷みたいな。

母は、その影響で、父に合わせて子育てして来た。
が、亡くなる前には、自分と私を重ね、
父の異常さ、DV野郎と結婚したことの後悔、子どもを平等に育てなかったことの後悔。

全て、冷静に振り返り、最期は私とあなたは同じだ。と言った。
父と弟は似ている。と嘆いていた。

私しか信用できないと言いだした。

母は、「私がいなくなったら父は喜ぶわよ。」と悲しんでいた。
まさか、そんなことはないよと慰めていたし、父の様子はそこまで酷くなかったので
いざとなれば、父は母の価値がわかり、孤独に泣くだろうと思った。


ところが、葬儀がすんだその日に
「せっかく1人になれたんだ、邪魔だから帰れ」ときた。

へ?心配して損したわ。
それならどうぞ、ご勝手にと
私はとっとと帰った。

私が父の世話をするのを、喜んでいたふりをしていたのか。
今更迷惑だと?
葬儀までは必要だったが、もう用は無いと?勝手なものだ。
そう言えば、母も「病気で動けない女は不要だ。でていけ」
みたいな扱いを受けていたなあ。

そうか、母の代わりに私がDV受けた訳だ。

母が亡くなっても、変わらない最低の父。
しかも葬儀の日だぞ。

ありえない。許さない。母の事なんか何も考えてない。

お礼を言われることはあっても、迷惑だなんて言われる筋合いはない。
娘にいうことばか。あ、娘じゃないんだ。息子さえいればいいのだ。
これまでは、母には冷たくても、私には優しかった。
母がいなくなり、
次のターゲットが娘か。ありえない。

この事は、弟も激怒し、父に怒鳴り込もうとしたが
私が止めた。

弟の前では、いい格好し、嘘を言うに決まっている。
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バタバタと荷造りをした。
当分、帰省しないかもと思ったので
母の形見に欲しいものは持ち帰った。

母が「こんな所にいたくない。私もついていく」と言っている気がした。
一緒に行こうと声をかけて、連れて帰った。(と思っている)

母が入院した時、思った事を書いたらと私がノートを送った。
それに、母は自分の気持ちを書いていた。

緩和ケアに移ってからは、書けなくなっていたが、
そのノートについて、私に、私の遺志が書いてあるから
よろしくねと言われていた。

そのノートも持ち帰った。

帰宅すると、母がついて来たと感じた。
猫に好かれていて、猫がよってくる人だったが
普段めったに来ないのに
猫がやたらうちの庭にきて、ニャーニャー鳴いていた。

夜は、私の寝室で、カタッ、ビシッと音がし、遠くで母のため息が聞こえた。
(と思っている)
その夜、子どもは母の夢を見て
母からのメッセージを聞いたと言う。
その言葉がまさにドンピシャ、母が一番気にしていたことだった。

偶然だろうが、帰宅した日はとにかく母の気配を感じた。

あの日は、傷ついた私を心配して
家まで送ってくれ、落ち着いたのを見て
再び父のもとへ帰ったと思った。

昨日は、母の近所の仲良しさんが訪問したらしいし
実家で、母もその様子を見ていた事だろう。

母が病院に居た時は可哀想で仕方がなかった。
今は、終わったという安堵感で、熟睡する毎日。

気になっていた親族に、手紙を書いたりして
どうにか、私の精神状態は落ち着いた。

父には自分の気持ちをぶつけた手紙を書いて、
もうこのままお別れになってもいいと
どこか、覚悟を決めている。

暴言を吐く時の父の顔は鬼のようで思い出すのも嫌だ。
もう会いたくない。

突然私が帰ったので、弟の方が参っている。

私がいるだけで心強かったらしく
父の相手を1人でするのが苦痛らしい。
大切にされても迷惑だという。

奥さんとは会話も無く(嫁さんは、葬儀も何もいっさい動かず
まるで他人事のようだった)
夫婦の会話が無いのがわかった。
弟も孤独なのだ。

私は、子ども達が見方になってくれ
ワイワイと話し相手になってくれ
心強かった。私が一番幸せだなあ。
実家では、私が一番貧乏で、最低の夫がいるのに
母の言う通りだった。
私が一番幸せに見えるって。






母を自分が看取ったことが
ずっと心に残り、不思議な感覚が残っている。

亡くなる時の母と二人きりの時間。
夜だったので、薄明かりの中、
映画のワンシーンの様だった。
厳粛であり、温かく清々しい雰囲気だった。

それまで、何度も電話で話していくにつれ
母は、どんどん頭が冴えてきて、聡明になり、
とても死を待つ人とは思えなかった。
いつまでも、そばにいてほしい人になっていった。

 だんだん、霊的に高いところに上っていたというか
言葉はうまく使えないが
仏さまに近づいていく感じというか。

人は、自分の死を覚悟すると
俗世間から脱して、高いところに昇るのだろうか。

最後に冷静に私たちを見て、
言いたい事を言い尽くして旅立った。

あの母は、理想の母だった。

最後の時を私と過ごし、見送らせてくれたのは
母が私を選んでくれたと思いたいし、思っている。
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それにしても、急だった。

母が再入院してから、亡くなるまで、
次第に弱り、泣き、絶望し、
時には希望を持ち、苦しみに悶え、
最後に諦めるまで、残酷で可哀想な2か月半だった。

亡くなる3日前の最後の電話は、私にかけてきた。

「あまりの苦しさに、医師に早く楽にしてくれと頼んだ」と言っていた。

その後、麻薬を投与された。
電話の翌日に最後の面会をした。
母の家族への最後の言葉は「ありがとう」だった。
その言葉はなんと私しか聞いていない。

父も弟も、知らなかった。というか聞いていなかった。

その日以降、意識は無かったと思う。
医師に聞いたのだが
意識が無くなる前に母はお世話になった医師、看護師さん達に
「ありがとう、お世話になりました。」とお礼を言ったという。

「まだ、早いですよと言ったのですが、
ご自分で、今日亡くなることをわかっておられたんですね。」
と医師に言われ、きっちりしたがる母らしい終わり方だな、流石だなと思った。

亡くなる時、母は私がそばにいるとわかっていたことだろう。
上の方から、私と旅立つ自分の姿を見ていたのかもしれない。

父の気持ちはよくわからない。

悲しいのは当然だろう。でも、血縁を優先する差別主義者だ。

端から見れば
「年老いた旦那さんが1人残され、これからが心配」
という可哀想な老人に見える。
私もそう思った。

父は、平気なふりして、実は喪失感でいっぱいではないかと。
母は「あの人は、私がいなくなっても平気。1人で自由にできると喜ぶかも。」
と何度も言っていた。
母がどうしてそんな風に思うのか、最初は不思議だった。

見た目では、父の姿は憐れに見える。
できるだけ近くにいて
食事の世話をして、寂しくない様にしなくちゃと思っていた。



亡くなる前日、ブログを書いていたのだが、
あまりに急なことだったので、そのままだった。
今日載せようと思う。

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16日の朝、弟から電話がきて
「病院から今日早めに来てくださいと連絡があった。
面会は2人までとなっているけど、ご家族は会っておいた方が良いですよと言われたから
父と3人で行こう」
という事になり、ばたばたと準備し、3人で向かった。

母の部屋に通されると、ショックを受けた。
え?つい3日前はこうじゃなかったのに。
黄疸がでて、苦しそうに呼吸をしながら
母は寝ていた。
苦しみに耐えて寝ていなかったせいか
熟睡していた。
麻薬を入れていると聞いたので
薬の影響かと思ったら、そうではなく
普通の睡眠だそう。

眠れるなら良かった、と思ったが
その姿は、やつれ、もう2度と話はできないような気がした。

こんな状態で、昨日の夕方私に電話をかけてくれたのか。
信じられない。最後に私に。

医師から詳しい説明を受けた。

「まだ、意識はしっかりしているから
目が覚めたら今のうちにお話されてください。

腫瘍が大きくなり、十二指腸を塞ぎ、
胆汁の行き場が無くなり、肝臓から血液へ逆流し
肝臓も腎臓もこの2日で一気に悪化しました。
黄疸がでて、相当のだるさがあったと思います。
それによってカリウム値が悪化。
あと1週間か、ひょっとするとカリウム値のせいで
心臓が止まることもあります。
危篤状態に入っています。」と。

母の言った通りだった。
やはり、母の感覚が正しいのだ。
自分の事は自分でわかる、その通りだ。

「明日か明後日には危篤の連絡が行くと思う。
準備しときなさい」と
そこまで母は自分で連絡してきた。
何て人なんだ。母らしいなあ。

「家の事は何の心配も無い。安心している。
腫瘍の場所が悪かった、仕方がない、あなたが帰ってくれて
本当に良かった。心配事が全部解決した。」
「電話で沢山話もできて満足している」
と何回も電話で言っていた母。

医師の話を聞いた後、
部屋に戻り、声をかけると
パッと目を覚ました母。

手をぎゅっと3人順番に握りしめ、
1人事の様に弱い声で、話し始めた。
「仕方ないの。場所が悪いの、もういいの。
何の心配もしてないの。」
と泣きながら、言っている。

私の姿が見えず、探していて
ここにいるよと言うと、安心したように
手を握って来た。
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翌日から、毎日面会ができて
1人なら泊まれることになった。
まずは、明日は私から。

毎日付き添いたいけど、弟と交代でやる。

緩和ケア病棟は、心電図モニターは使わない。

なので息を引き取っても気が付かないかもしれない。

常に緊張する。

一晩中、母と一緒に過ごせる。
それだけで嬉しい。

コロナで、面会ができず、寂しかった事だろう。
本当に可哀想な2か月だった。

旅立ちの時、退院時に着せたいお気に入りの服があれば
持ってきてくださいと言われた。

母が転院する時
ブラウスを探していて
とても華やかな綺麗なブラウスを見つけた。

母に、このブラウスを着て、いつか家にまた帰ろうねと
話したら、「そんな日がいつくるかわからないけど
一応それを用意しといて」
と答えが返って来たことを思い出した。

そのブラウスを明日持っていく。

きっと母に似会うと思う。
母が着る最後の服を、私が選んだ幸せ。
こういう事は弟にはさっぱりわからない。

最近の母は自分と私を重ねていた。


 


 母が亡くなった。
3月18日の早朝。

泊まりを許されたので
私が泊まった最初の日に。

部屋には母と私の2人だけ。

薄暗いライトの灯りの下で
母の手を握り、話しかけながら
私1人で静かに息を引き取るのを見届けた。

それがとても幸せだった。
私が看取りたかったし、母と二人きりで
最期を過ごせた事実は
特別な記憶となって残った。
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まるで我が子を見守る母の気持ちになった。
母は自分の母親が夢に出てくると言った。
人は母から生れ、また母の胎内に戻るんだなと感じた。
最後の母は、新生児のようだった。
可愛くて愛おしくなった。

そして、心の中から
母への懺悔の気持ちが溢れて来た。
息を引き取る寸前に
手をにぎって
「親不幸な娘でごめんね。」と泣きながら謝った。

それまで面会の時に手にさわると
ぎゅっと握り返してくれた母の手は
もう反応は無かった。

看取る相手を、母が選んでくれたような気がした。

今はこれだけ、とりあえず書くことに。

色んな事があり、書きたいことが多すぎて
また、後程ゆっくり書きたいと思う。




15日の夕方6時過ぎだった。
声は枯れて、力が無く、
ろれつも回らず、よく聞き取れないのだが
母は何とか頑張って話そうとする。

「足はまだ痛い?あれからどうだった?」と聞くのが精一杯の私。

「足も痛いけど、もう靴はいらないわ。もう私はダメだと思う」
と言う。
「昨夜、苦しくて一晩中眠れず、唸っていて、気が付いたら
病室がナースステーションの前に移動されていたの。
もうどこが痛いとかそんなもんじゃない。
ああ、私は明日までもつかなあ、明後日までかなあと
自分で感じるのよ。
お医者さんに、もういっそ、楽にしてくださいと頼んだけど、
鎮痛剤を変えます、明日には楽になりますよ。そしたら今より
元気がでるからと言うけど、とてもそんな気がしない。
近いうちに、病院から危篤の電話が入ると思うわ。
待機しとくように、あの子(弟)にも伝えといてね。」

と、息切れしながら、必死で訴えて来た。

「電話をする力も無かったけど、今ならできそうだと思ってかけたの。
またできるといいけど、わからない。薬で意識が無くなったらそのままだし。
もうそろそろ切るね。」
と言って電話はきれた。

「電話をもらえて良かった。無理しないでゆっくりして。家の事は何も心配いらないから」
と言うのが精一杯で、言葉に詰まり、涙が出て来た。

医師よりも本人の感覚を信じようと思ったが
今回はどうなのだろう。
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すぐに弟に連絡しようと思ったその時
弟から電話がきて「今、病院から連絡がきた」と言う。
え?電話切った直後に何かあった?
とどきっとした。

内容は母から聞いた様子と同じで
「鎮痛剤の影響で、嘔吐などでベッドが汚れたので
急遽、部屋を変えました。明日から鎮痛剤を強くします。
病状について、説明しますので明日か明後日、来てください。」
という内容だったそうだ。

 これから、説明をするという事なら
今日明日に迫っているということではなさそうだ。

弟に、母から電話があった事を伝えたが、
医師の話の感じでは
まだ大丈夫だと思うと言っていた。

母はそれだけ、苦しいという事だ。
「いっそのこと、このまま逝ってもいいです。
早く楽にしてください。もういやです」
と何度か医師に訴えている。

腫瘍ができた場所が悪かったし
リンパ腫の種類が、良くないタイプだったことも
不幸だった。



一昨日の夜10時に母から電話がきて
「足がむくんで痛い。」と言ってきた。
大きめの靴を持っていくことになったが
すぐに「あ、10時だわ。叱られるから切らなきゃ。また明日かけるね」
と言って、きれた。

朝と夜の区別がつかないと言っていたが
夜の10時だとしっかりわかっていたし
夜に話す声が響くと迷惑をかける、という事もわかっていた。

話し方は、抗がん剤の2度目の時のように
 ろれつが回らず、苦しそうに話していた。
浮腫がでてきたということは
いよいよ悪化しているのか。
腹水が溜まってきたら
本人は更に絶望感を味わうことになる。

みるみるうちに衰えていく自分を
自覚しながら生きていくのは
いつも言っているが残酷すぎる。

今は、鎮痛剤漬けの毎日なので
脳に悪影響が無いはずがなく
いつまで、今の母でいられるか。
もうじき、せん妄で苦しむのだろうか。
可哀想で仕方がない。

うつらうつらして、目覚めては寝て夢を見て、
目覚める度に、だるさと死への恐怖と無念さが
毎回母を襲うのだと思う。

電話で言いたい事を言っている時は
気力が出て来る様で
話し終わった後は、ぐったりしている事だろう。

これまでの母は「世間体やこれから先の事を考えて」
言いたい事も抑え、本音を誤魔化して生きて来た。
そのストレスを私に向けて発散していた。

今はもう「これから先のことを考える必要が無い」
と悟ったか、全てのしがらみを切った。
夫と子以外には誰にも会わないし、縁を切ると頑固に言っている。

今の母は「私の育て方が悪かった」
「私が、お金をすぐ渡していたのがいけなかった。」
「あの子は、軽すぎる!」
「あの子の結婚は失敗だった。相手に飲み込まれてしまった」
などなど、弟のことを私に何度も言う。
しかも、これまで秘密にしていた事を私に話し出した。

弟が内緒で母から貰っていたお金が他にも
色々あった事を聞いた。

ついに弟自身に「あんたの奥さんは、何もしない人だったね。
しっかりしなさい!親のお金をあてにするなんてみっともない事よ」
などなど、母が言ったらしい。

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母は、弟に気を使うのを止め、本音を吐く様になった。

もっと早くにそうして入れば。

弟は平気だ。何も変わらないだろう。

母は自分と私の立場を重ねて
私の事ばかり心配するようになった。

もう遅いよ。
もっと前に、ずっと前にそうするべきだったね。

でも、最後に母がそうなってくれた事が
私の救いで、色んな話ができたことが
本当に良かったと思う。

弟のお金の件は父は知らない。
父の前では弟はきちんと振る舞うから。

父も、男尊女卑の古い考えなので
息子に世話になっていると弟に気を使う。

なので、父は全てを弟に譲り、
結果的に実家の実権をあのお嫁さんが握り、
これまで知らん顔をしていたのに
親がいなくなった途端、口をだしてきて
めちゃくちゃにするのではないかと
母が心配する。

だから、母の方が父より先に逝かれては困るし、
母もそうでありたいとずっと言っていた。

それだけが心残りの様だ。

母からの電話を待っていたら、
昨日の夕方、電話がきた。

その内容は、ショックなものだった。


父の希望通りのサービス付き高齢者住宅?が一軒見つかった。

実家からも近く、マンションの1室を借りる感覚。

病院と併設なので急病にも対応。
料金も安く、父の年金でやっていける。

自由に過ごせるので、昼間はいつでも自宅に帰れる。
食事は部屋に運んでくれる。

ここいいねと盛り上がった。
が、まだ母がいる。入るのはまだ早い。

それに、父は今のところは、どうにか普通に動け、
自分の事は自分でできる。
歳相応の認知症が心配なだけ。

本人も、食事と急な病気だけが心配だという。

おそらく、父も母と同様、まさか息子の嫁がこんな変わった人だったとは
思いもよらなかったのだろう。

馬鹿にされ、嫌な思いをしてまで、
そしてお金をとられてまで
あの嫁さんに世話になりたくないし(しないけど)
嫌な思いもしたくないという心の表れだと思う。

私がこのまま、一緒に暮らせば何の心配も無い。

が、今はまだそこまでの準備ができていない。

弟夫婦が、最低限、食事さえ世話してくれたら
このまま1人で暮らせていけると思う。
が、お金を貰うのが条件でやるような奴等には
私からもお断りだ。

過去に、弟が持ってきた料理の内容を母に聞くと
とても高齢者が食べられる様な物じゃないと言っていた。
柔らかい物しか食べれないのを良く知っているはずだし
塩辛くて食べれない味など
嫌がらせかと思うほど、その料理に思いやりを感じなかったと。

そして、それを何かにつけて恩を着せる弟。
一つのタッパーに大量に入れた物を持ってきて
3日分だからと言われたらしい。
そしてお金を受け取って行く。
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そんな状況なら、
父は弟達によって、むしろ健康も財産も奪われてしまう。

母も、父からの暴言と弟夫婦の冷たさで
ストレスが多かったはずだ。

「息子の世話になる、居てくれて良かった。
嫁に虐げられて、息子は可哀想、助けなくては」と
言っていた母は、自分が間違っていたことに
今、やっと気が付いた。

元気なうちに、食事を提供してくれる施設に入りたいという
父の考えに対して、私もその方が安心だと思って賛成した。

弟は反対していた。
かといって世話をする気は無いという。

世間体が悪い?奥さんが世話しないのがばれる?
今更何言ってるのか。近所にも親族にももうばれてるし。

食事、病気、怪我を思えば、このまま1人暮らしより、施設は安心。

何だか父が可哀想になってきた。
私が近くに住んでいれば良かったのだが。
母と同様、幼い我が子を家から出すような感覚になる。

父も一人ぽっちで狭い部屋でぽつんと
過ごす事になる。

できるだけ、帰省しよう。
まだ、これからの事だけど。

いつまでも、家族に囲まれて賑やかにすごせたら
こんな幸せはないんだなあと感じる。

だからこそ、夫の愚かさが、
想像力の無さが、自業自得だけど
「ばっかだよなあ」と呆れてしまう。

自分のことしか考えない人は
人生の終わりは、それなりの結果になるということだろうか。



 


面会に行ってきた。

母は横になって泣いていた。
「だるくてだるくて…」
と言い、起き上がりベッドに腰かけた。

腰や背中をもんであげると
「気持ちいい。ここでは、痛いと言っても誰もさすってもくれない。
そうやって手をあててくれるだけでいいのに。」
と言いながら、嬉しそう。

背中にまだ肉がついていて
ホッとした。

手も指先から揉んでいると
冷たくて、母がぎゅっと握って離さない。

足もさすり、とにかく母にずっと触れていた。

母が何故泣いていたか、説明してくれた。
医師に「これから私はどうなるのでしょうか」
としつこく聞いたらしい。

「病気は治りません。これから悪化していくので、
薬で痛みを抑えていくだけになります。」みたいな事を言われ、
「ならば、私の体力が無くなれば終わりが来るのですね。」
「ただ、薬を点滴するだけの日々で、そのうち意識が無くなって終わりなんですね。
何の希望も無いのですね」
と念を押したという。

緩和ケア病棟は、本人に質問された場合、
ありのままを伝える事を家族は承諾しないと入れない。

なので、仕方がない。

母は「そのうちせん妄がでてくるって。私が私で無くなるんだよ。」
と、涙をふきながら話す。

「強い薬を使うから、そうなるみたいね。苦しむよりはいいけど」
と答えるしかなかった。

すると「もう幻覚は見えてる。光の玉が沢山飛ぶのが見えた」
と言う母。

ここまできても、しっかりしている。
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10年位前の方が、老化していた気さえする。
今の方が頭がさえている母。
それが逆に残酷だ。

「もっと早くに逝くと思っていたのに
ここまで長く生きるなんて、思ってなかった。」
と何回も言う。


昨日までわずかに持っていた希望で、何とか自分を奮い立たせてきたが
完全に打ち砕かれた様だ。

面会時間が20分と短く、1週間に1回の面会は
少なすぎる。

毎日会えて、毎日マッサージしてあげたら
少しは寂しさも不安も安らいだに違いない。

帰る時、寂しそうな母を置いて行くのが辛かった。

一緒に写真を撮ったら、笑顔になってくれたのが救い。

弟が、使った通帳の明細を渡してきて
使った分は戻した様だった。

母が悲しんでいた事を話したら
流石に反省したようだった。
この件はこれで終了。

帰宅すると、父が自分の入る施設をさがしてくれと言うので
ネットで一緒に探した。

いよいよ、実家が変わっていく…。


 


今日は、私にとって2度目の面会日。

実家にいる限り、約5日置きに母に会える可能性がある。
いつまでいようか。
一度帰宅したいが、帰ってしまうと
再び帰省した時、面会する為には
また2週間の待機期間がある。
どうしても、会うとしたら
病院でPCR検査を自費で(2万近く)受けなければならないそうだ。
PCR検査代は、もっと安くするか
無料にならないと、
無症状の人からの感染は防げないと思う。
無駄なマスク配布、GO TOより
こういった事を優先に税金を使ってほしい。

何度も思う。コロナさえ無ければ。
毎日面会できて、母の精神状態は
かなり違っていただろう。

私も気楽に実家に行ったり来たりできて
こんな風に気をもむ事も無かった。

私は、父に合わせた食事しか食べられないし、
車の無い生活で不便を感じる。

色々、実家の中を整理して
多量のゴミを出したり、掃除したりで
やる事はある。

あまりいじると
父が困るだろうし、場所はかえずに
片付けをしている。

無意識に「母が帰ってきたら喜ぶかな。使いやすくなったかな。」
と思ってしまう。

以前も何度かこういう場面があったから。
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4年前の母の足の手術の時、
帰省した私は、退院する母を掃除をすませた実家で迎えた。
食事の世話も暫くやってから
自宅に戻った。

リンパ腫の手術後も、同じ。

いずれも母が元気に回復し、
食事もよく食べていた。

弟夫婦が近所にいて
車は毎日だしてくれるが
実家ではいっさい何もしないので
母が退院した時も、
外でポンと降ろして、さっと帰った。

退院した時にそれ?
奥さんが昼食でも用意してくれるとか
何かお祝いの雰囲気はないの?

入院中の荷物もポイと置いたまま帰り、
まだ動けない母に自分でやれと言わんばかり。

その時も、いっさい顔もださず
知らん顔の弟の奥さん。

自分達は、さんざん母に世話になり
最後まで母に食事を作らせ、お客様状態だった。

こんな時位、恩返ししたら?
と、私も母と愚痴っていたが
結局は母は弟が可哀想だからと黙っていた。
それどころか、弟に感謝の言葉を言うばかりで
何もしない奥さんにもお金を渡す日々。

その結果が今。

先の無い母は、今更弟に気を使う必要も無くなったと
開き直ったのか、弟夫婦に見切りをつけた。

態度には出していないが。
もう庇う事も無い。

表面的には何も変わらず
今まで通りの態度。

母は、痛み止めのせいか、だるさが強くなり
寝ている時間が増えて来たそうだ。
昼なのか夜なのかもわからないと言う。

「ちょっと前まで
1人で廊下を歩けたのに
もう今は、介助なしでは歩けず
息切れもし、やる気もでない」という。

光が眩しく感じ、部屋を暗くしているらしい。

昨日は午前中に電話がきた。
声が枯れていた。
またかけるね、と言ってきれたが、結局こなかった。

悪い事を思い詰める精神状態になるのは当然だろう。
大丈夫、家の事は私に任せてと言って落ち着かせている。

母が以前に比べて
冷静に自分の弱っていく状況を観察しているのが
残酷でならない。

本人も「いっそ、脳がおかしくなって何もわからない方が楽だ」
と何度も言う。


食事ができさえすれば
たとえ腫瘍が無くならなくても
母なら長く生きたことだろう。

鎖骨からの栄養点滴になったことが
致命的で、つくづく、残念だ。

さて、今日は早めに実家をでて
たまには外で昼食をとり、気分転換してから
母に会う事にしよう。
弟から迎えにくると連絡が来た。



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