りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ:実家のこと > 母の事~悪性リンパ腫


最近、何故か毎日の様に母が夢に出て来る。
確かに母を夢で見たが、内容は覚えていない。
夢に出て来る母の姿は今の私の年齢か、それより若い。

自分の中の母はその頃が一番思い出に残っているのかもしれない。
今、自分と同じ年齢の母と会えたら、きっと話が合うだろう。
友人なら気が合いそうだ。
親子という関係が私達には合わなかったのかも。

自分と同じ年齢の母は、つい最近の姿の様な気がする。

私はあと何年生きられるかわからないけど
もし、母と同じ年齢まで生きたとして、あっと言う間だろう。

いつまでも親は元気で変わらないと思い込みがち。
気が付けば年老いていたと言う感覚だった。
我が子達も同じなんだろうな。

子ども達にとって、父親(NPD夫)の存在は頭に無いだろうから
母親(私)だけが実家にいる親としての存在だと思う。

私がいつまでも今のまま変わらず元気で、
永遠に親として見守ってくれると思い込んでいるかもしれない。
私が老いて寝込んだり、重病で入院するなんて
想像していない気がする。思いたくもないだろうし。
だから、できるだけ長く元気でいたいし、
迷惑もかけたくない。
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それにしても、母は夢の中で何を伝えたかったのだろう。
メッセージを伝える為に出て来ると勝手に思っているので、
内容を思い出そうとするのだが、思い出せない。
不思議な偶然というものが良く起こるので、
何かの予兆、良いことだったら良いけれど。

棚に飾っている写真を、夢の中の母の姿に近い写真に変えてみた。
父と並んでいる写真も横に。

夫が突然帰宅したら、陰湿ないつもの嫌がらせで
写真を落として割ったり、変な風にいじられるかもしれない。
そういう幼稚な意地悪をする。
でも、そんな事をいちいち気にするのも馬鹿らしいので
夫が二度とここには来ないと念じて生活している。



母の重い病気がわかった時、母から電話で言われた。
「私は重い病気みたいだわ。今日医師からあの子(弟)に説明があったみたい。
可哀想に、母親が病気と聞いてショックを受けてるわよね、
ああ可哀想に。今頃、落ち込んでいるだろうねえ。あの子に余計な心配かけてしまったわ」

思わず、私は「え?私もあなたの子どもだけど。可哀想じゃないの?」と口走った。
それでも母は??という反応で、意味が理解できていない様子だった。

重い病気で先が短いと知り、母自身、相当辛いはずなのに、
息子の気持ちを心配する母。
小さい頃から息子の気持ちばかり配慮して、娘の気持ちは想像もしないし、
どうでもよいという長年の習慣?がそのまま表れていた。

世間体の悪い行動をする私の夫を軽蔑してはいたが、
弟は嫁の尻に敷かれて可哀想、私には悪い男に騙されたあなたが悪い、と言う。
恥かしい娘だからと、他人のふりをさせられたこともあった。

私は弟に母の表裏を全て話した。
弟がたまに母にちくりと注意すると、一瞬慌てるが態度が変わる事は無かった。
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母が病気になってからは、それまでの気持ちは一旦忘れ、積極的に母と話す様にした。

皮肉なもので、寿命を意識した母は、
次第にまともな事を言う様になり、俗っぽい計算や世間体や差別意識も消えていた。
本当に、仏様に近づいていってた気がする程だ。
言葉使いも綺麗になっていた気がする。

私への態度も自分の人生と重ね、
女性の生き方として共感し、まるで同じ年の友人と話している様だった。
変なフィルターが外れ、真実が見えたかのように。
自分の人生を振り返りながら、20代に戻った様な、別人のような、
何でも素直に私に話す日が続いた。

亡くなる日が近づくにつれ、弟に不信感を持ち始め、
息子と話があわないと言い出し、自分は間違っていたと言い出した。
私にだけ電話をかけてくるようになった。
「大丈夫だから、心配しないで」と何度も慰めた。

「私はもうダメかもしれない」と言う最期の電話も私にかけてきて
私一人、病室に泊まった日の夜明け前、
結果的に、私一人で看取ることになった。
あの時の幸福感は悲しみを超えていた。
理想的なお別れが出来た様な、満足感があった。

自分にとって、二人の母がいた。
毒親的母と亡くなる前の良き母。どちらも記憶から消えない。

暇な時間ができる度に、思い出す。
今までずっと母の電話の相手で、こんなゆったりした時間は無かったなあ。と。

そして、生れてからこの歳まで続いていた説明のつかない嫌な感情がぷつっと消えた。 



1人暮らしになったせいもあると思う。
最近、休日や夜、ぼーっと過ごす時間が多くなった。
以前なら友人と電話したり、会ったりして暇を感じる事は無かったが、
この数年のうちに、人と接触するのがおっくうになり、
1人でいる方が楽になってしまった。

海外ドラマに夢中になっている時は、時が速く過ぎるのだが。
その後の疲労を取るまでに時間がかかり、
目から体調不良へ、不安感へと悪循環になる。
なので、今は観たいのをぐっと我慢して、休息中。

空いた時間に、やる事があると気が紛れるが、
これまでこんな暇な時間を感じる事はなかったなと気が付いた。
子育て中もそうだけど、空いた時間は母の電話相手をしていたからだ。

それも長い間。
今から出勤で、急いでると言っても電話を切ろうとしない母。
一度話し始めると、何時間も1人で話しまくる。
話さないと不安だったのだと思う。
が、相手をする私にはストレスだった。
ただ、色んな親族の情報、父や弟家族の事が良くわかったし、
たまには、私も愚痴を言って(あまり聞いてくれなかったが)発散できたので
仕方なくも、話し相手になっていた。

誰にも話せない夫のことは、母にしか話せなかった。
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あまりに長電話になると、父が後ろから怒鳴りつけ突然電話を切られた事もあった。
母と話した後は、いつもイライラが残っていた。
母の表の顔と裏の顔が違い過ぎて、
裏の顔を私に吐き出して、表では物わかりの良い良い人を演じていた。

一番私がイラついたのは、
娘の感情はどうでもいい、娘は何をしても気にしないもの、
いくらでも利用してもいいという親の差別的思い込みだ。

息子の感情はいつも気にして、気を使い、冷たくされても
裏切られても大事にしていた。
私は母の都合の良いストレス発散の道具だったと思う。

勿論、抵抗し、電話にでない、断ることもあった。
すると、何て冷たい娘なんだ、親を泣かせるなんてと非難された。
それも、私にだけ見せる顔だった。
色々そんな事が積み重なり、私が大爆発したこともあった。 続く




夜なかなか寝付けない時は、YouTubeで眠りを誘う癒しの音楽を聴きながら寝る。
最初、聴いた時は少し怖かった。
何故か、母を看取った場面が蘇ってくるのだ。

病室は薄暗いライトでほの暗く、
弱くなる母の呼吸をじっと見ていた。
紫色の様なきらきらした色の光に包まれて、
幻想的な音楽が流れていた様な、
厳粛で綺麗な光の中にいたようなイメージが残っている。

実際にはただの病室で、そんな事は無かった。
が、思い出すとその映像と音楽があったかのような気がするのだ。
癒しの音楽がその時の音楽に似ている。

だから、母を見送るシーンが何とも言えない幸せな美しい体験に感じた、
別れのシーンだったのに、号泣もせず、涙は少ししか出なかった。
母がこの世を卒業し、次の世へ旅立つのを
「お疲れ様、よく頑張ったね」と見送ったような気持ちだった。

(私の妄想だと思っているから誰にも話していないが、
あの時、病室の天井の角から強い視線を感じた。
怖くてそっちの方を見なかった。
誰かが見ている気がして、自由に動けなかった。
今思えば、馬鹿馬鹿しい、もっと好きに動けば良かったのに、
角をじっと見て、何も無いのを確認すれば良いだけのこと。
と思うのに、あの時はそれができなかった。
自分も変な精神状態になっていたのかも。)
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あの時より、今の方が寂しさを感じる。
不思議なのは、母を見送る前後の記憶が部分的に飛んでいること。

病室に泊まる事になって、夕方部屋に入ってすぐに
子どもから電話がきて、話をしたことも忘れていた。

母が亡くなってから、葬儀までの行動も部分的にしか覚えていない。
徹夜だったのに、眠気もなく元気だったことだけ覚えている。

あれから時間が経ち、思い出す事も減って来た今、
癒しの音楽を聴くたびに、あの病室が蘇ってくる。
そういう別れができるというのは、幸せなことだ。
事故や事件で悲惨な別れをするのは不幸で残された人にとっても辛い。

安倍元総理が亡くなって1年。
あの時、思ったのは
「ベッドの上でなくて、汚くて冷たい外のコンクリートの上に倒れ、亡くなるなんて気の毒すぎる。」
だった。
家族に見守られてベッドの上で静かに息を引き取るのは
誰でも望む事だけど、なかなかそうはいかない場面があるのは辛い。

元気なうちは、自分の去り方は誰にもわからない。
だから怖いのかも?



子どもが自立し家を出た後、部屋の模様替えをした。
それぞれが自分の物や家具を運び出した事もあって
気分的にがらんとした空間になった。

とは言え、物が減ったのは快適だ。
掃除も楽。
やっと自分の部屋ができた。

結婚以来、初めての自分の部屋。
誰もいないんだし、家全部が自分の部屋みたいなものだけど。
(夫はいないものとしている)

模様換えのついでに、母の遺影コーナーを私の部屋に移した。
寝る時に一緒にいる方が良い気がするから。
それと、母の事も夫から守りたいという意識が強くある。

夫が母の遺影を見て、反応する時を思うと憂鬱になる。
わざとらしく悲しむふりをしながらも、嬉しそうな表情をするのを
私は感じ取ると思う。
そして、すぐに父はどうしているのか、まだ生きているのかを
またまた心配するふりして、聞きだすだろう。
まだ元気とわかると、がっかりするのもバレバレだろう。

そして母から何か相続していないか探り、急に帰宅が増えてきて
私に執着してくるかもしれない。お金目当てで。
何も無いと言っても、隠していると信じないだろう。
夫がそうだったから。
考えると不快になるので、遺影を私の部屋に移した。
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一昨日、熱帯夜で眠れず、昨日は気分がずっと悪かった。
新自分部屋が家の中で一番暑い。
なので、試しに昨日は、リビングに寝てみた。
ごろ寝で熟睡はできなかったけど、長く寝られて
今朝は気分良く起きることができた。

朝、カーテンをあけていると、
自分の部屋の方から、私の名前を呼ぶ母の声がした。
えっ?今のは?聞き間違い?と思ったが、
すぐ部屋に行き、母の遺影に向かって挨拶をした。
昨日、部屋で寝なかったから心配したのかな?

聞き間違いだろうが、母の声が久し振りで、
とっても懐かしかった。
あんな風に、呼ばれていたなあと思い出した。
最近、母の若い頃を見て見たくなる。
写真でしか見られないが、私の幼い頃、一生懸命子育てしていたのは
伝わるし、記憶もある。

昔は今よりも家事、育児は大変だったし
女性の立場も弱かったし、やりくりも大変だったろうし、
苦労の多いことだったろう。
でも、頑張ったね。私よりずっと強くて充実した人生だったよね。
と労う気持ちが募るようになった。

生きているうちに、そう言えば良かった。
亡くなる前に、よくがんばったよね、って。
でも、半分毒親に思えた部分がそれを邪魔していた。

毒親の思い出は横に置いて、
母の人生を1人の女性として想像し、記憶をたどり、
どんな思いで生きて来たのだろうと、
思いを巡らせることも多くなってきた。
自分がこれから一人でどう生きていくか、
何か参考になり、励みにしていく事もあると思うから。





お天気が良い日には、母がいつも電話で
「今日は布団カバーやマットなど
いっぱい洗濯したよ。パーッと窓を開けて、布団も干して本当に気持ちいい!」
と言っていた。
「パーッと窓を解放」するのが好きだった母。
(今の実家はその反対の状態
二階に上がって、活動的にそんな作業を亡くなる1年前までやっていた。 

最後の入院後、あっという間に足が弱り、
「この前まで階段を上って、二階で布団干していたのに!悔しい」
と辛そうに話していた。

当時の母よりまだまだ若く、健康な自分なのに、
最近は、布団を干すことを面倒臭く思う。
重い物を持つのは平気!と言って、ちゃきちゃき動いていた自分はいずこへ?

実家の様に、ベランダに干せるような広い場所もなく、
狭い所に、場所を作って干すので
気分的なものもあるのかもしれないが、
それでも、今までは苦に思わなかった。

確実に筋力が落ちている。
かといってジムに行く気は全くない。
なので自分でどうにか頑張るしかない。

母は、長年膝が悪かったので、最後まで歩けるよう努力していた。
プール内で歩行したり、病院内のジムに通っていた。
肉体、精神共、衰えないよう、常に気を付けていた。
今の私は何もしていない。

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父は冷たい人で、きつい作業も母にやらせて重い物も持たせて
自分は手ぶらで歩くような人間だった。
病気になっても冷たかったことを母に聞いていた。
不調で助けを求めた時も、父も弟も冷たかったと、
すぐには言わず、後になってから母は私に愚痴った。

内心「娘が近くにいてくれていたら」と思っていた事だろう。

でも、その言葉を絶対に両親は口にしない。
男尊女卑で、弟夫婦にいつも気を使っていた。
本音は「まさか息子夫婦がこんなに冷たいとは思っていなかった」だったろう。

そのお嫁さんが母の後をすぐ追うなんて。
まさかの連続で、明日は我が身みたいに思えて来る。

両親の世代は、私達が体験していない大変な苦労をした。
特に母は結婚してからも。
あんな小さな身体でどれだけ父と父の実家に尽くしただろう。

母のくしゃくしゃの小さい手を、
亡くなる直前に強く握りしめ写真に残した。

布団干し位で、だるいだの言ってる自分は
どんどん生ぬるい人間になってる。

いつかくる夫との戦い?に備えて、準備を進め、
エネルギーを溜めているつもりが、
いつになるかわからないまま、
だらけていたらダメじゃないか、自分よ。


今朝は夢の途中で目が覚めた。
長い夢だったはずだが、後半だけ覚えていて、最初の方はおぼえていない。 
実家に帰省して、片付けをして、帰ろうとしていたら
母が現れ、慌てて母とお喋りする夢。
帰りの新幹線の予約をしていたけど、
間に合うかなと気にすると、母が大丈夫?と聞いてくる。

もっと話したい私は「大丈夫、時間はあるし、今日帰らなくてもいいし」
と言いながら、母の質問に答えていく。

何故か、実家には母と二人。
色々話をして、楽しい時間を過ごそうとしたところで目が覚めた。
もっと話したかったのに、目が覚めるなんて。
と悔しかった。

以前の母は、黙って立っているだけだったけど、
最近の母は、話しかけて来る。
昨夜はしっかり会話ができた。
夢の中の母は、いつも50~60歳位で、元気で若い。
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母の魂はまだ実家にいるのかな、と思ってしまう。

あの世で色々心配している気がする。
まだまだ、逝きたくなくて、もっと元気に暮らしたかったに違いない。

夢の中の母は、いつも素敵な母だ。
今までも、似た様な夢を見ていたのだろうけど
忘れているのだろう。

夢でも会えて嬉しかったけど、寂しくなった。
夢には不思議なメッセージも感じるので
また会えるのを楽しみに待とう。



ケーキを作った時、久しぶりに料理の本を出して、作り方の確認をした。
過去に何度も見ながら作ったので、そのページだけは汚れている。

内容は本格的で、丁寧に書いてある本。

プロの教科書みたいな料理本だ。

この料理本は、図鑑の様な10冊セットで、洋食、和食、中華、季節の料理、
パーティ料理、お菓子、お弁当、などなど何でも基礎から応用まで手順が
写真付きで載っている。

分厚く、重いし、高かったのだと思う。
結婚する時、花嫁道具の一つとして母が買って持たせてくれた。

母は料理が苦手だった。
何も教えてやれなかったから、この本で勉強してという気持ちだったのだろう。

母の娘を想う気持ちは無いはずがない。
本を贈る時、誇らしげというか、満足気だった。

表の母の顔はそうだった。

世間体というか、母親らしい事をやるという
形式的な事は、やってくれた。

が、その裏で、帰省した私をこき使い、
地元にいる弟夫婦はお客様扱い、孫まで差別するという態度、
どこが母親なんだと怒りがわくような態度をとられていた。
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母の方が料理を勉強すればよかったのに、
自分はいいの、と努力をしなかった。
家のご飯が貧相で、美味しくないのは本当に苦痛で、
成長期にも悪影響であるというのは
我が身の体験で嫌というほど感じた。

そんな母が、私の子が小さい時、「いつもろくなもの食べていないのでしょうから
ここで栄養をつけていきなさい。お婆ちゃんのご馳走は美味しいよ」
と、口癖のように言っていた。

反面教師で、自分は母として我が子に、
自分が嫌だったことはしないと決めていた。
子どもの好きそうな料理だけは、工夫して作っていた。

だから、母の言うことに我が子はキョトンとしていた。

そう言いながら、そこに弟の子が来ると、
母は、突然態度を変え、我が子にこれもあれも食べるな、と止めた。
弟の子だけに食べさすのだと。

益々、キョトンとする我が子たち。
何でだめなの?と子ども達が母に聞いたと言う。
「あんたたちは、娘の子だからよ。息子の子は特別なの」と答えたそうだ。
私のいないところで。

後から、子ども達から聞いたり、自分も嫌な思いをして
縁をきってやると思い、何年も帰省しない時もあった。

すると、母は慌てて謝ってくる。
別人のように優しくなる。が、根本的にはわかっていない。

取り繕う良い母と下品な母。

亡くなる時は、良い母になった。
あれが本当の母だったのだと思いたい。
だって、もう欲も、期待も計算もする必要の無い世界にいくのだから。
本音とか、素の気持ちが出るのではないかと思うのだが。
違うかな。

亡くなって寂しい、誰にも言えない愚痴を母に吐き出したい、
とか時々思う。
けれど、母からの長電話の後に残る、
イライラする気持ちからは、解放された。
自分は母に対するイライラを、ずっと抱えていたのだ。

寂しさと引き換えに、心は平穏になっている。
でも、やっぱり寂しい。
もう少し、母の介護をしたかった。
コロナが、本当に邪魔だった。




新婚の頃住んでいた土地で,仲良くなったママ友がいて、
その人はお母様を幼い頃に亡くされていた。
結婚しても、お父様と同居していた。
1人目を出産してすぐに、お父様が重い病に倒れた。

赤ちゃんを育てながら、自宅で介護をしていた。
さっぱりした性格の人で、
介護の辛さも顔に出さず、時間をつくっては
私と子供とよく遊んでくれた。
「気分転換になるから、また誘ってね」
と言ってくれていた。

彼女は、いつも明るかった。
たまに頼まれて、私は家事の手伝いに行ったりした。

しばらく会えない時期があり、
久し振りに会った時、お父様は亡くなっていた。
あの頃、まだ自分の親は若かったし
親が亡くなるなんて、ピンと来なくて、
20代で、まだ子どもさんも小さいのに、
両親を亡くしてしまうなんて、想像もできないほど辛いだろうと思っていた。

あの時、彼女が口にした言葉で、印象に残ったのは、

「父が亡くなる前、一時おかしくなったのよ。
目を覚ますと、きょとんとして、私の事が誰かわからなくなり、
自分の事を、16歳位の少年だと思っていた様なの。
父の頭は16歳の頃にタイムスリップしていて、当時の話を話すの。
その時の目つきも顔も子どもになっていたのよ。
しばらくすると、元の父に戻ったけど、翌日、息を引き取ったの。
あれは、不思議な体験だったわ。」
「自分が体調が悪い時、父の気持ちを想像してみるの。
父は病の辛さを何も語らなかったけど、親の気持ちは
いなくなってから、わかってくるものね」
と言う内容だった。

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お父様の変化は、脳の機能が弱り、せん妄かなと思うが、
私が、今も記憶に残している、理想の母、
亡くなる前に、聡明になった母の変化と重なった。

最後に長電話した時も、
母は、20代の独身女性になっていたと思える。
独身時代の事、結婚するまでの葛藤、
今起きているかのような、乙女の気持ちが伝わった。
その後、まだ小さい私たちを育てている若いママになり、
子育て楽しかったなあと笑っていた。

人は、もうすぐ命が消えようとする直前に、
急にしっかりする瞬間があるという。
家族は、元気になったと誤解する。
私も、まさか、その後すぐに急変するとは
思ってもいなかった。
だから、もっともっと話を聞いていればよかったと後悔した。

声だけ聴いていると、本当に高齢者とは思えない、
若い母の声だった。

翌日夜に急変し、まさかあんなに弱った姿を見る事になるなんて信じられなかった。

彼女のお父様の話を思い出し、
彼女もお父様も、私も母も、最後にベッドの上で見送る事ができて
幸せなお別れだったことは確かだろう。



手元にいつも置いていて、メモしているノートがよれよれになってきた。
字も汚くて自分でも読めなかったりするので、
新しいメモ帳に整理し直すことにした。

中には、これまでの夫の色んな嫌がらせや、嘘の記録も書いている。
ずっと繰り返す嘘、転職など内容が多すぎ、現在進行形なので見るだけで嫌になる。

母が入院してから亡くなるまでの記録もあった。
当時、メモしていて正解だった。今見ると忘れている事が多い。
そうだったっけ?と時間もずれて記憶していたり、
母が呟いた言葉などもメモしていて良かったと思った。

書き直していると
当時の事が、甦ってきて辛くなってきた。

母と毎日電話で話していた。
母にとっては、最後は我が子との会話だけが救いだった。
最初は、すぐに帰れると思っており、
明るく元気だったのが、次第に現実を知るにつれて
鬱になり、涙声で話していたが「電話で話していたら気が紛れた」
「元気がでた」といつも言っていた。

コロナ禍で、少ししか面会ができなかったことが一番お互いに辛かった。
亡くなる4日前、1時間半も長電話した日がある。

あの日の翌日夜に、急変した。
長電話した日は、声は元気で、頭もしっかりしていて、
翌日に急変するなんて思ってもいなかった。
だから、あの日の事を後悔している。

最後の長電話をした母は、
自分の人生を振り返り、
あの時は楽しかったね、と、子育て中の思い出を話していた。
父との結婚は、後悔している風だった。
もっとあの時、もっと深く話を聞けば良かった。

母はあの日の朝、医師に宣告されていた。
「私はこれからどうなるのでしょうか」
と医師に聞いた母。
医師は、正直に、もう長くない、最期は、苦しまない様にしますから
最善を尽くしますから、と答えたそうだ。
母は「もう今すぐ楽にしてもらいたいと思っています」と言い、
医師は「まだ早いですよ。大丈夫ですよ。」と諭したらしい。
その話も、母から聞いた。

その電話の前日は、私がやっと2度目の面会を許可されて会えた日だった。
母にマッサージをしたり、手や足をさすったりしていると
決まりの20分はあっという間に過ぎ、後ろ髪をひかれる思いで帰った。
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翌日のその電話で「面会時間は短すぎるよね、もっといてほしかった。
マッサージも誰もしてくれないし」
と、まるで子どもの様に、私に甘えたそうにしていた。

私も、もっとこれから会えると信じて居たので、色々やってあげるつもりでいた。

あの日、母は、なかなか電話をきりたがらなかった。
永遠と話をしていたい様だった。
予感がして、恐かった、寂しかったのだろうと思う。

私も、もっと話をしていたかったが、
夕方になり、父の食事の準備を何もしておらず、気になっていた。
こんな時だから、父に待ってもらっても良かったのだろうが、
父は、最後まで母に冷たく、
元気な時から「長電話するな!」と怒鳴りつける人だったので、
いつ最後の電話になろうが、お構いなしで、
ましてや自分の食事をおざなりにされたら怒るだろうと思った。

最後まで、母に嫌な思いをさせたくないと思い、
私の方から、父の夕飯の準備があるからと言って電話をきった。
また、明日話せばいいやと思っていた。

あの時の、すがりつくような、もっと話したいという母の声を思い出し、
辛くなる。

父は最後まで、母と電話でも面会でも話そうとしなかった。
だから、尚更母は結婚を後悔したのかもしれない。

当時使っていた携帯電話の着信履歴、留守メモに残る母の声。
今、目にすると母との最後のやりとりが甦る。

後悔することばかりだ。
それと同時に、やってて良かったと思う事もある。
母に、日記を書いてもらったことも。

面会許可を得るまでの待機期間中に、邪魔だと帰れと
父に追い返されそうになったことがあったが、
抵抗し帰らなかった。当時の父はおかしくなっていた。
粘ってよかった、母にあえて、看取りもできた。

いつからか、父は人が変わって来た。
それでも、夫よりは全然まともで、父としての責任を果たし、誇りに思う。

私の母への気持ちというのは、最後の数日間、同じ女性として心が通じた事が大きい。

これまでの母は「どうしたら娘に自分の気持ちが伝わるのだろうか」
と、どこか冷たい娘に、必死で親の愛を伝えたかったのだろうなと、
娘と自分はどこか合わない、自分を理解してほしいと
もがいていたかもしれないなと、いなくなった今、感じる。

コロナ禍であることが、一番の障害だった。
世の中の多くの人が同じ思いをしている事だろう。

こうやって何度も繰り返し、思いを書き出すことが救いになっている。




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