りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ:実家のこと > 母の事~悪性リンパ腫


新婚の頃住んでいた土地で,仲良くなったママ友がいて、
その人はお母様を幼い頃に亡くされていた。
結婚しても、お父様と同居していた。
1人目を出産してすぐに、お父様が重い病に倒れた。

赤ちゃんを育てながら、自宅で介護をしていた。
さっぱりした性格の人で、
介護の辛さも顔に出さず、時間をつくっては
私と子供とよく遊んでくれた。
「気分転換になるから、また誘ってね」
と言ってくれていた。

彼女は、いつも明るかった。
たまに頼まれて、私は家事の手伝いに行ったりした。

しばらく会えない時期があり、
久し振りに会った時、お父様は亡くなっていた。
あの頃、まだ自分の親は若かったし
親が亡くなるなんて、ピンと来なくて、
20代で、まだ子どもさんも小さいのに、
両親を亡くしてしまうなんて、想像もできないほど辛いだろうと思っていた。

あの時、彼女が口にした言葉で、印象に残ったのは、

「父が亡くなる前、一時おかしくなったのよ。
目を覚ますと、きょとんとして、私の事が誰かわからなくなり、
自分の事を、16歳位の少年だと思っていた様なの。
父の頭は16歳の頃にタイムスリップしていて、当時の話を話すの。
その時の目つきも顔も子どもになっていたのよ。
しばらくすると、元の父に戻ったけど、翌日、息を引き取ったの。
あれは、不思議な体験だったわ。」
「自分が体調が悪い時、父の気持ちを想像してみるの。
父は病の辛さを何も語らなかったけど、親の気持ちは
いなくなってから、わかってくるものね」
と言う内容だった。

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お父様の変化は、脳の機能が弱り、せん妄かなと思うが、
私が、今も記憶に残している、理想の母、
亡くなる前に、聡明になった母の変化と重なった。

最後に長電話した時も、
母は、20代の独身女性になっていたと思える。
独身時代の事、結婚するまでの葛藤、
今起きているかのような、乙女の気持ちが伝わった。
その後、まだ小さい私たちを育てている若いママになり、
子育て楽しかったなあと笑っていた。

人は、もうすぐ命が消えようとする直前に、
急にしっかりする瞬間があるという。
家族は、元気になったと誤解する。
私も、まさか、その後すぐに急変するとは
思ってもいなかった。
だから、もっともっと話を聞いていればよかったと後悔した。

声だけ聴いていると、本当に高齢者とは思えない、
若い母の声だった。

翌日夜に急変し、まさかあんなに弱った姿を見る事になるなんて信じられなかった。

彼女のお父様の話を思い出し、
彼女もお父様も、私も母も、最後にベッドの上で見送る事ができて
幸せなお別れだったことは確かだろう。



手元にいつも置いていて、メモしているノートがよれよれになってきた。
字も汚くて自分でも読めなかったりするので、
新しいメモ帳に整理し直すことにした。

中には、これまでの夫の色んな嫌がらせや、嘘の記録も書いている。
ずっと繰り返す嘘、転職など内容が多すぎ、現在進行形なので見るだけで嫌になる。

母が入院してから亡くなるまでの記録もあった。
当時、メモしていて正解だった。今見ると忘れている事が多い。
そうだったっけ?と時間もずれて記憶していたり、
母が呟いた言葉などもメモしていて良かったと思った。

書き直していると
当時の事が、甦ってきて辛くなってきた。

母と毎日電話で話していた。
母にとっては、最後は我が子との会話だけが救いだった。
最初は、すぐに帰れると思っており、
明るく元気だったのが、次第に現実を知るにつれて
鬱になり、涙声で話していたが「電話で話していたら気が紛れた」
「元気がでた」といつも言っていた。

コロナ禍で、少ししか面会ができなかったことが一番お互いに辛かった。
亡くなる4日前、1時間半も長電話した日がある。

あの日の翌日夜に、急変した。
長電話した日は、声は元気で、頭もしっかりしていて、
翌日に急変するなんて思ってもいなかった。
だから、あの日の事を後悔している。

最後の長電話をした母は、
自分の人生を振り返り、
あの時は楽しかったね、と、子育て中の思い出を話していた。
父との結婚は、後悔している風だった。
もっとあの時、もっと深く話を聞けば良かった。

母はあの日の朝、医師に宣告されていた。
「私はこれからどうなるのでしょうか」
と医師に聞いた母。
医師は、正直に、もう長くない、最期は、苦しまない様にしますから
最善を尽くしますから、と答えたそうだ。
母は「もう今すぐ楽にしてもらいたいと思っています」と言い、
医師は「まだ早いですよ。大丈夫ですよ。」と諭したらしい。
その話も、母から聞いた。

その電話の前日は、私がやっと2度目の面会を許可されて会えた日だった。
母にマッサージをしたり、手や足をさすったりしていると
決まりの20分はあっという間に過ぎ、後ろ髪をひかれる思いで帰った。
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翌日のその電話で「面会時間は短すぎるよね、もっといてほしかった。
マッサージも誰もしてくれないし」
と、まるで子どもの様に、私に甘えたそうにしていた。

私も、もっとこれから会えると信じて居たので、色々やってあげるつもりでいた。

あの日、母は、なかなか電話をきりたがらなかった。
永遠と話をしていたい様だった。
予感がして、恐かった、寂しかったのだろうと思う。

私も、もっと話をしていたかったが、
夕方になり、父の食事の準備を何もしておらず、気になっていた。
こんな時だから、父に待ってもらっても良かったのだろうが、
父は、最後まで母に冷たく、
元気な時から「長電話するな!」と怒鳴りつける人だったので、
いつ最後の電話になろうが、お構いなしで、
ましてや自分の食事をおざなりにされたら怒るだろうと思った。

最後まで、母に嫌な思いをさせたくないと思い、
私の方から、父の夕飯の準備があるからと言って電話をきった。
また、明日話せばいいやと思っていた。

あの時の、すがりつくような、もっと話したいという母の声を思い出し、
辛くなる。

父は最後まで、母と電話でも面会でも話そうとしなかった。
だから、尚更母は結婚を後悔したのかもしれない。

当時使っていた携帯電話の着信履歴、留守メモに残る母の声。
今、目にすると母との最後のやりとりが甦る。

後悔することばかりだ。
それと同時に、やってて良かったと思う事もある。
母に、日記を書いてもらったことも。

面会許可を得るまでの待機期間中に、邪魔だと帰れと
父に追い返されそうになったことがあったが、
抵抗し帰らなかった。当時の父はおかしくなっていた。
粘ってよかった、母にあえて、看取りもできた。

いつからか、父は人が変わって来た。
それでも、夫よりは全然まともで、父としての責任を果たし、誇りに思う。

私の母への気持ちというのは、最後の数日間、同じ女性として心が通じた事が大きい。

これまでの母は「どうしたら娘に自分の気持ちが伝わるのだろうか」
と、どこか冷たい娘に、必死で親の愛を伝えたかったのだろうなと、
娘と自分はどこか合わない、自分を理解してほしいと
もがいていたかもしれないなと、いなくなった今、感じる。

コロナ禍であることが、一番の障害だった。
世の中の多くの人が同じ思いをしている事だろう。

こうやって何度も繰り返し、思いを書き出すことが救いになっている。





一時期、夢に出てこなくなった母が、 
最近、よく夢に出て来る。

夢でも会えると嬉しいのだが、
今朝は目覚めが悪く、今でも思い出すと悲しくなる。

夢の中の母は、在りし日の母と少し違う。
笑っていない。
自分は、母をもういなくなった人として夢の中で接している。

昨日の夢は悲しかった。
私が実家に帰省していて、
(母がショッピングカーを引いて
毎日歩いて通っていた)スーパーに、
買い物に行った夢。

スーパーに入ろうとすると、
買い物が終わり、帰ろうとする母にばったり会う。
私は、母が何故いるの?と驚き、霊?かと思って話しかける。

母は「晩御飯の材料を買いに来た」と無表情で言う。
いつも沢山買い込んでいた母の手には
小さい袋1個だけ。
母と一緒に店に入り、買い物に付き合ってもらう。
母は小さく弱々しい。
現実なら、母の方がお喋りしてきて、
溌剌としているはずだった。
夢の中の母は、寡黙でどこか悲しそうなのだ。

母の手には小さい袋。
「今日は、買い物少ないね。カートが無かったから?
ああ、ごめん、あれ、私が形見に持って帰ったんだと言いかけて
母が亡くなった事を言ってはいけない、母は、自分はまだ生きていると思っているのだ。
と感じ、入院中に、借りたままだったから、返すね。」
と誤魔化した。

うん、お願い、とだけ呟く母。
どんなに体調が悪くても、誰も手伝わなかったからか、
父の世話をしなくちゃ、と思っている様子。

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母は、自分が亡くなった事を知らず、
退院して、帰宅し、また元の生活に戻っているつもりなのだ。

元気の無い母に、
父の話題をして、お喋りしようとする私。

つい「あれからね、父が母の荷物を勝手に処分しようとしたのよ」
と愚痴を言いそうになり、慌てる私。

母の声も弱く、ぼそぼそと話す。

私は、夢の中で
「母は亡くなっていない。退院してまた元の生活に戻ったんだ」と
自分に言い聞かせたところで、目が覚めた。

母の夢には、自分の深層心理などが影響しているとは思うが、
母からのメッセージもある気がしてならない。

ただ、母の声、しっかりとした意志を最後まで
聞いていた自分としては、
母自身は、あの時期にこの世を去るのは、無念だったことは確かだ。
やり残した事があり、
それを目標に頑張って長生きするつもりだった。
その為の努力をしていた。

今、私が夫より先に、となったら、
母と同じで、悔しくてたまらないと思う。

だから、あんな夢を見たのかな。
母は今も、いつもの様に買い物に行っているのかも。
実家で、父に不満を持ちながら、
しんどい身体で、料理を作っているのかもしれない。

目には見えないけど。

そして時々、私の所にも来て、
安心してまた父の所へ帰っていくのだろう。





朝晩はまだ少し冷えるのに、
昼の暑さにはバテそうだ。

ちょっと動いただけで、いやーな疲れが残る。
温度差に身体が慣れていなくて、
体温調節にエネルギーを使っている。
こんな時、老化を感じる。

体力が落ちた。
コロナのせいもあるし、
何をするにも用心して、無理しなくなった。

これからもっと暑くなると言うのに。こんなじゃだめだ。
そのうちやろうとやりたい事を引き延ばして、
あっという間に年を取り、
悪い病気が見つかったら、益々動けなくなり、
…あれもしたかった。これも~と後悔するのだろうな。
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最近、自分が子どもだった頃のヒット曲を聴いている。
母の葬儀の後、たまたま車の中で聞いてから、
何回も繰り返し聴くようになった。
両親が健在の時は、懐メロを聴いても、特に何も感じず、
自分の思い出がちらほらと浮かぶだけだったのに、
今は、全く変わった。
自分よりも、両親の若い時の姿が浮かぶようになった。

夫婦で頑張って子供を育てていた姿。
父に愚痴を言いながらも、尽くす母の姿。
幼い私を心配そうに見ていた母の姿や笑顔も
音楽と共に鮮やかに浮かんでくる。

今になって、自分の思い出の背景には
両親の存在があったんだと、
両親無しには、自分の人生も無かったのだと痛感する。

懐かしい曲を聴きながら、母の、1人の女性としての人生に思いを巡らせる。
母は幸せだったのだろうか。
最後まで、精神は若く、しっかりしていた母。
病室で泣きながら、人生を振り返っていた事だろう。

子育てをしていた時が一番幸せだったと日記に書いてあった。
電話でも、思い出話をしていた。
残酷な状況だった…、私は母がいなくなることが信じられなくて、
きちんと受け止めてあげられなかった。

私の記憶の中で、母が一番幸せそうに見えた時期は、
私が学生の頃だったかなと思う。

夢に出て来る母も、あの頃の姿だ。

最後まで電話で毎日話せて、
親不孝な娘だったけど、1人ぼっちじゃなくて
娘が見守る中で天国に行けたから良かったかな。

日常生活に追われ、時の流れと共に母の事も記憶から薄れていく。
意識して思い出すようにしたい。
出来の悪い迷惑ばかりかけた娘からの懺悔…。


 


母の1周忌の日。
ああ「もう去年の今頃は~」と思いだしても母はいない。

この1年、昨年のまだ生きていた母とのやりとりを思い出す事で
まだ母が生きている気がしていた。

弟がぎりぎりまで、来れないかと聞いて来たが
残念ながら、コロナ禍で遠慮した。

寂しい法事になるだろうな。
このご時世、どこのお宅もそうなんだろう。

弟が写真をラインで送ってくれて
様子を知らせてくれた。 

母の事となると、これまで、色々不思議な事が起こっていたので、
昨夜は、母が亡くなった時間に目が覚めたり、
母の夢を見るとか、何か起こるかなと期待したが、
何も起きず、夢も見なかった。

ただ、昨夜不思議なことはあった。
夕食をとっていると、玄関から人が入ってきて歩いてくる音が聞こえた。
子どもが帰宅したと思った。
途中で足音が消えた。誰も部屋に入って来ない。
玄関に見に行くと誰もいなかった。
気のせい?でも確かに音がした。

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今朝、弟からラインで
「昨夜母が初めて夢にでてきたけど、
何か叱られた。凄く鮮明で母に会えた感じがした。
目が覚めたら、亡くなった時間だった。
不思議な気持ちになった。」
と伝えてきた。

今までは、私だけがそんな不思議体験話をしていて
全く不思議体験の無い弟は、無関心な感じだった。

初めて弟の夢に母がでてきたのが、ちょうど1年後の
亡くなった時間だったなんて。
それ、私が体験するはずだったのに、と思った。

でも、弟を叱ったなんて、母らしいな。

それと、一応、父の様子を近くで見てくれて、
1周忌も開いてくれる息子に
母はお礼を言いたかったのだろう。

これまでは、私を心配してそばにいてくれたけど
(もういいかな、そろそろ家に帰るわ)と言う感じかな。
それがあの足音?
でも、多分また父に腹をたてて?うちに戻ってきそう(笑)

弟は、母の写真に手もあわせていないらしく
今日は、久々に線香を立てたと言っていた。

外は雨。
葬儀の後、父から追いだされ、泣く泣く帰宅した日も雨だった。

あれから1年。
まさかこの1年、コロナは全く治まらず、ロシアが戦争を始めるなんて
そして、東北でまた地震が起きるなんて、
もっと良い方向に向かうと思っていたのに…。



今年は電気代が高い。(´;ω;`)
原材料の値上げもあるし、使用料も昨年に比べて増えていた。

今年は昨年より寒いんだっけ?と思いながら
1年前の今頃を思い出すと、母がまだ生きていたんだなと気が付く。

今頃は、精神的に一番辛そうだった。
すぐに家に帰れると思っていたのに、手術もしないし、
抗がん剤も効いていない、自分はどうなるのだろうと不安が押し寄せた頃。

コロナ禍で、お見舞いも許可されない、孤独な入院生活。
毎日、私と弟と電話で話すことで、気を紛らわせていた。

2月の20日には、緩和ケア病棟のある病院へ移動。
それまでに、本人に真実を話さなければいけなかった。

20日の移動中なら、こっそり会えると思い、私は急遽帰省した。
(検査キットで陰性を確認して、病院には内緒で。
その後、面会したのは、2週間の待機期間を過ぎてからだった。)
弟の車の中で、やっと母に会え、
僅かな時間、実家に母を連れて行き、話ができた。

実家に帰った時の母は、自力で歩く力も無く、私が介助した。 

あの日の事を、母が後日電話で私に言った。

「家に帰った時、全然嬉しくなかった。どうせ私はもうだめなんだと自棄になっていたから。
薬が効かなかった、転院しましょうと医師から言われた時、医師から見放された、
私は1週間以内にこの世からいなくなるんだなと思った。」
と。
あの時の母は、まだ長く生きていけるかもと、
医師が何と言おうと、母の魂がしっかりしていたので、
私は希望を持っていた。

転院してからは、調子の良い日は
「私、このまま、長く生きていられるかも」
と希望を口にすることもあった。
そう思わないと気がおかしくなりそうだったのだろう。
電話では、口調がしっかりしていたので、
私は、本当にこのまま何年も生きるのではないかと希望を捨てなかった。
だから、亡くなる直前まで、母とは希望をもって明るく接していた。

それにしても、あの時の、母の「肉体と魂のずれ」が今でも戸惑いを残している。
肉体はいまにも滅びる寸前なのに、魂はどんどん若返り、綺麗になっていった。

姿を見せない、声だけの会話だったからか、50代の頃の母の様だった。

すでにあの世に行ったり来たりしていて、
あれは電話じゃなくて、あの世から話しかけていたのではないかと
だから、声が若くてしっかりしていて、
自分に起こる事がわかっていたのかなとか。
そう思う方がしっくりくる。
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病院から「危険な状況になった」と弟に電話が来たと同時に
母が私に電話してきて
「私はもうダメだから、明日あさってにはいなくなるよ。
病院から連絡があるから、待機しといて」
みたいな内容の事を言ったのは、最後の力を振り絞り、
迷惑を書けないよう、しっかり伝えようとした母の凄さなのだけど、
どう考えても、あの世から母が連絡してきた様な
不思議な感じがしたのだ。

今母から電話がきたよと弟に言うと、
「え?ありえないでしょ。」と驚いていたのを覚えている。

翌日、最後の会話をした時、
「昨日は苦しかった中、私に電話してくれたのね。~」
みたいな事を伝えたが、母は黙って私を見て、物凄い力で私の手を握りしめた。
どこから、あんな力が出たのだろう。
思わず、痛い!と叫んだほどだ。
その時の母の目力が強かったのを覚えている。

昨年の今頃、まだ生きていたと思えるだけで救われる。
まだ、近くに居る様な気がするから。

1周忌が過ぎると、遠くに行ってしまう様な寂しさがある。
遠くに行ってしまうというのは、
自分の中の母の記憶、声、仕草、臭いなど、
そして、看取った時の感覚、その記憶が薄れていくという事なのだろう。

看取っていなければ、ここまで思う事は無かったかもしれない。

最期に近づくにつれて、母が私だけを信じると言い出し、
後はこうして、と指示を出し、最期を予言する電話をし、
最後に強く手を握りしめ、
私と二人、最期に一緒に過ごした後にさようならした。

お別れの時、悲しさ以上に、凄い幸福感を与えてくれた。
神秘な体験をさせてくれた母に感謝する。

それと、矛盾するようだが、
母から長年、頻繁に電話がきていたのが、
突然来なくなった事が、最初は寂しく悲しかった。

気が付くと、母の電話の後、いつもイライラしていたのが、
今では毎日、心穏やかになっている。

母の電話が私の心を乱していた事も事実だったのだなと実感している。
私には、2人の母が居た様だが、心に残るのは最期の母になっている。




前に、実家から慌てて持ち帰った母の着物を整理した。

タンスも一杯だし、とりあえず衣装ケースに 押し込んだ。
いずれ、実家を整理する日がくる。
これ以上、荷物を置く場所もなく
かといって、形見が全くいらないとは思えないし、
どうなってしまうのだろうと考えた。

服や道具は全て処分するが
生前、母がこれは形見として持っておいてほしいと
言っていた物は、私が生きている間は保管することになりそう。
自分が歳老いたらいつか処分しよう。
子ども達に、片付けの負担は残したくないし。

知りあいの着物屋さんに勧められるまま、
母は、私への財産としても買いそろえていたのだろう。
昔の感覚で、着物は財産。
困った時にお金に換えられるとか、
娘に着物を持たせないと世間体が悪いとか、
当時の親なら似た様な考えの人は多かったのでは。

母は、亡くなる1年前に、お気に入りの着物を着た写真を残したいと言った。
抗がん剤で脱毛していたので、私が送ったウイッグを付けて。
あの時、まさかあっけなくいなくなるなんて思っていなかったが、
一緒に写真を撮っていて良かった。

母は、遺影をとっておきたかったのだ。
はっきりは言わなかったが、
一番好きな着物を着て、きちんとした写真を撮りたいと言った。
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なかなかチャンスが無かったが、最初の手術の後、
再発が無く、少し体調が良くなった時期に
私や子どもたちと一緒に、大好きな着物を着た母を、
私たちが何枚も写した。

どれも嬉しそうな笑顔あふれる母の綺麗な写真が出来上がった。

それを遺影に使った。
葬儀屋さんが「素晴らしい写真ですね。」と誉めてくれた。

我が家のリビングにも同じ写真を飾っている。

着物を片付けながら、遺影の写真の時に付けていた帯締めが無い事に気が付いた。
実家に忘れたかな。いや、確かに持ってきた。
前はあったぞ。おかしいなと思い、あれこれと探した。

急に悲しくなってきた。
私は着物に疎く、母任せだった。
着物を触る時は、いつも母に聞いていた。

何で、私が1人でこんな沢山の着物を触っているの。
どうしたらいいか、わからないよ。
いつもここで、母に電話して聞いていたのに
もういない。

母の遺影を横に置いて(帯締めの色を確認する為)再び探した。

するとすぐ見つかった。
母の写真をそばに置いたとたんにだ。

「ほら、あったでしょ。全く探し方が下手なんだからね」
と写真から声が聞こえる気がした。
写真の母は、今の私を笑っている気がした。

私の心の中の母は、健在だった頃の母とは違う。
亡くなる前の聡明な、愛情にあふれた優しい母だ。

生前は、イライラさせる母だったが、
今は、私は穏やかになり、写真に毎日話しかけ、
お願い事、悩み、愚痴などを聞いてもらっている。
まだ、母が近くに居る様な気がするうちは
そうしていきたいと思う。




未だに、母が居なくなったことが信じられない。
亡くなった事は、頭ではわかってはいるが、
感覚的には、まだ生きていると思ってしまう。

母を自分1人で看取った体験以降、
私の中で何かが変わった感じ。

それが何なのかはわからない。
一般的に、親を看取ったと言うと
さぞ悲しい体験でしたねとのイメージを持たれる。

確かに、薬で意識の無い母の肉体を見ていて、
肌色が悪くなり、呼吸が弱くなってきた時、
ああ、もう逝ってしまう、と感じた瞬間、
心の底から「ごめんね、こんな娘で」と謝る自分がいた。
申し訳なさで、涙が出た。

呼吸が止まるのを確認した時、
とても悲しいのに、不思議な幸福感に溢れた。
とても神秘的な、紫色の光に溢れた様な
何て言うのだろう、神々しい清らかな世界に溢れた様な、
母と一緒に優しい光に包まれた様な、
そんな不思議な体験だった。

以前も書いたが、母が胎児に見えてきて
再び、母の胎内に戻って行ったような、
やっとこの世の苦しみから逃れられて、良かったねと
まるで我が子の様な愛おしさまで感じた。

私にとって、不幸と言う言葉があの瞬間には当てはまらない。

私は、ずっと誤解をしていた。
人が亡くなる時は、肉体が何か異常行動を起こし、
汚い状態になるものと、勝手に想像していた。

以前、伯母を看取った時も、静かに、眠る様で、
美しかった。

事件事故などで、残酷な亡くなり方をする場合に比べて
理想的な最期を迎えられたと思うからそう感じるのかも。

私しかいなかったけど、
おそらく、弟だったら寝ていて見逃したと思う。
私は、あの日、母が亡くなるのがわかっていた。
 医師はあと数日と言ったが、早かったのは、母の意志で
あの日、あの時間を選んだと思う。

「もう私はあの世にいくから」という母からの最後の電話で、
私に託された気がした。
今思えば、あの電話も不思議だった。
母から電話が来ていた時、
同時に、病院から弟に、母が危篤だと電話がきており、
「今、母から電話が来た」と私が言うと、
弟が驚いていた。そんなはずはないと。
母は「病院から私が危篤だと連絡が行くよ」
とも私に言っていた。

しっかりとした口調で、どこが危篤なのと
後から思えば不思議でならない。
翌朝、母との最後の会話で、
「こんな苦しい状態だったのに、私に電話をかけてくれたんだね。」
と、あえて明るく、いつも通りに話しかけた。
コロナ禍だったが、病院の配慮で、この日から毎日の面会と部屋に泊まる事を許された。
が、翌日には亡くなった。

母が予定していた通りに進んだという不思議な達成感。
母は何もかもわかっていて、さ、行くわよ、と私に声をかけた気がした。
予定通りに行かない方が良かったはずなのに
母がそれほど苦しく、早く逝きたかったのなら
それが一番良いと家族皆、賛成していたから。

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亡くなる前のお迎え現象のこと、
母が話す夢の内容を思い出すと
あの頃からあの世に行ったり来たりしていたと思う。

母の顔付き、話す内容が聡明になっていったから。

これまで、深く考えてこなかった。
あの体験から、肉体と魂は別ものだと確信した。

あの世があるかどうかは誰も知らない。

少なくても、肉体が滅びても、魂は生きているのを感じた。

頭がおかしくなった?と思われるかもしれない。

私の脳の問題かもしれない。

緩和ケアを担当する医師や看護師さんは
こういう人を何人も毎日見ているわけで、
不思議な体験もあるのではないかと予想する。

どうしてこんな事を今頃思うかというと
毎日、母の写真を見て、話しかけているのだが
問いかけると、返事が聞こえる気がするからだ
実際には聞こえないが、
向こうからはこっちが見えていて、
何か伝えようとしている気がする。

「生きていたら、電話で娘に愚痴ったのに!」
とあの世で、母がお喋りしている気がする。








帰省するまでは、母がまだ生きている様な、実家に帰れば母の気配を感じる気がした。

母が居なくなった事を諦めきれなかったと言うか、
あれでよかったのか、とずっと考えて居た。

それが無くなった。
今回、成仏できたのは私の心だ。

母の着物、一部の服を持ち買ってきたが
それでも、どこかで
「こんなに持ってきたら、母が着る物無くなって困るのでは」
なんて、どこかでつい考えてしまう。

どこか施設にいたり、入院していていないだけ、
また帰って来た時に、無いと困るのでは、なんてふと思ってしまう。

その度、もういないんだ、と自分に言い聞かすのだが
母自身が、また家に帰って元の様に暮らすつもりでいたから
私にもその母の無念な気持ちが
乗り移っていたのかもしれない。
でも、母はもうどこにもいないという実感は今回感じた。

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これまでなら、何かを体験するたび、
母から電話がきて、こうだったよ、ああだったよ、と
感想を聞かせてくれていたが、
今回ほど、母に心境を聞いてみたい時は無い。
聞ける様な気がしてならなかった。
もし、聞けるものなら
母の事だ、長い時間、色んな事を話す事だろう。

元気だったころ、
「この世からいなくなるのが怖い」といつも言っていた。
いざ、目の前にあの世が迫ってくると
自分ら早くあの世に行きたいと言い出した。
医師にお願いするほど、苦しかったのだろう。

そのことを最後の電話で私に教えた母。
自分がもうダメだとわかっていた。
そんな事を感じるほどの苦しみって想像もできない。
でも、母は冷静で、いつも通りに話した。

取り乱す事も無く、あの頃の母は、それまでの母ではなく
浄化され、もうこの世から魂が半部抜け出していた様な、
霊的な存在になっていた気がする。

旅立つ事を全く怖がっていなかった。
このまま生きていく方が辛いと言い、
私は黙ってうなずくしかなかった。
が、父より先に逝く悔しさだけは残っていたと思う。

緩和ケア病棟に入っても楽になる訳ではなく、
こんな辛い思いをしないといけないのかと、
苦しい目にあわせたことが、私と弟の心残りだった。
 
そんな事も、少しづつ気持ちの整理がついてきたような気もする。

そして、母は実家ではなく、私の所に居る気がして
逆に安心した。


先日ばたばたと帰省した後、
自分の気持ちの変化を感じて驚いている。

葬儀以後、父が家の中をほとんど変えてしまっており、
母の気配はすっかり消えていた。
家全体が父だけの部屋みたいになっていた。

母の気配を父があえて消したんだと思う。

初めて見る新しい仏壇。
母の位牌だけが置いてある。
無造作に。
お水もお供えも無し。
一番嫌だったのが、仏壇を置いてある棚の戸を閉めたままだという事。

まるで、母が押し入れに閉じ込められている様。

毎日お参りもしていないだろう雰囲気が伝わる。
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前回自分が実家にいた時には、まだ仏壇は無く
同じ場所には、置かれたばかりの祭壇があった。
帰って来たばかりのお骨、綺麗な花、果物に囲まれて
まだ母がそこにいた。

後ろ髪を引かれるような、母を置いて帰れない、
このままでは何をされるかわからない、という不安で
母も一緒に連れて帰った気がしたあの日以来の同じ場所。

あの時とは全く雰囲気が変わっていて
「ここには母はいない」
と感じた。こんな所に居たいはずが無いし、居ないよね。
と声をかけた。

写真がいくつか置いてあるから
偲んでいる風には見えるけれど
父と弟に、心が感じられない。

冷たい、窮屈な場所。しかも、お骨は一番拒否していた場所に。

父は、自分の好きな場所は、母も好きであるべき、と
母にも実家があり、兄弟もいるのにそのことを忘れている。

自分の所有物と思っている。

そんな事を母が一番嫌がって、ノートにも書いていたのに
父は無視した。弟も。

だから、母(の魂)は、今は実家にはいないんだ。

いないと感じたら、ホッとした。
天国でゆっくりしていて、
たまには私の家に遊びにくるのかも?だったらいいな。


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