りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ:つぶやき > 昔の出来事



持ち帰ったお宝品の中に、同人誌10部がある。
学生時代の友人の中に、小説を書くのが趣味の、自称?文学青年ぽい人がいた。
私も当時は本が好きだったのと同じビートルズ好きで、
彼は唯一趣味の話が合う相手だった。

彼から「小説好きな仲間で同人誌を作る事になったので読まない?」
と、発行する度に私に渡してくれた。
連載を書いていた彼は、照れくさそうに感想を聞いてきた。
私は何て答えていたのだろう、覚えていない。

そんな記憶も、段ボールを開けるまですっかり忘れていた。
紙の色は黄色くなっていたが、綺麗な状態。
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当時の私は自分に自信が持てず、サークルに入ったものの
人と接するのが苦手で、仲良しの友人以外とはうまく話せなかった。
そんな私でも馬鹿にせずに接してくれる有難い存在だった。

あれから何十年。
彼にとってこの冊子はどんな存在なのだろう、
今思い出してどんな風に思うのだろうと興味が湧いた。
もしかしたら、是非それが欲しいと言われたら送ってあげたいし、
近況も知りたいと思い、メールをしてみることに。
年賀状は今までやり取りしているので抵抗は無い。

元気なのだろうか、病気していないだろうかと
一瞬心配したが、すぐに元気だと返信が来た。

「懐かしい、自分は全部捨ててしまって何も残っていない。
どんな事を書いていたか覚えていない、変な事書いていないか気になる。
思い出の品を持っていて羨ましい、大事にしてね」
との事だった。
ビートルズの話題などもやり取りした。

彼との会話の中身は、あの頃と何も変わらず同じ。
お互い歳はとり色々な経験はしたけれど、
本質はあの頃のままということを確認できた気がした。

父が捨てなかった段ボールの中から
思いがけず、懐かしい友人の近況まで知る事できて良かった。Σ(=゚ω゚=;)


久し振りに、子どもの成長記録DVDを観てみた。
自分の育児記録でもある。
かなり前に、ソニーのビデオカメラ(懐かしい)で写したテープから
ビデオテープに録画して、
更にそれを編集したものをDVDにやいたものだ。
子どもそれぞれにダビングして渡してある。

かなり前の作業で、自分が編集したのに
詳しい事をあまり覚えていない。
画質も悪く、場面の切り替えも雑で、目が疲れた。
今ならパソコンで編集して綺麗にできるのに。
データがテープなので、それが精一杯の作業。
沢山のビデオテープの中から選んでまとめたので、
雑にならざるを得なかったのだろう。

子ども達はそれでも喜んでくれたので、まいいか。
生まれてから大人になるまでの自分の映像をみるのは
どんな感じなのだろう。

自分の子ども時代は、当然写真しか残っていない。
動画があるのは、20代の頃の出産、子育て中の頃からだ。
DVDを観ると。ガリガリに痩せていて今とは別人だ。
ふっくらした(デブとは言わない)今の方が健康的かも。
救われるのは、いつも私と子どもが笑っている映像ばかりなこと。

そして、自分のしてきた事なのに、
よくあんな小さな子ども達を無事に育てたなあと、ひやひや?した。
今歳をとり、体力も気力も衰えたから当然だけど、
生まれ変わっても、もう、絶対無理、できないと思う。
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動画で振り返り感じるのは、
やっぱり、出産、子育ては大変ということ。
誰か協力者がいるだけで、母親の負担は全然違う。

子どもを無事に育て上げるのは、当たり前の様に思われているが、
実は奇跡なのだと思う。
色んな事故、病気で命を落とす子ども達は多いけれど、
幼い子どもの周りには危険がいっぱいだ。

自分を含めて、今まで生きて来れたのは
運が良かったのだと思う。
自分の幸運に感謝しないといけない。

余裕の無い不安な中で、子ども達の存在に救われて
親として未熟で無知だった自分を反省することばかりだ。
もっと抱っこしたら良かったとか、
もっと母乳を飲ませていたらとか、
あんなに叱らなきゃよかったとか後悔ばかり。
子ども達に心の中でいつも謝っている。

考えれば、経験の無い事をいきなりやるのだから、
失敗するし、うまくできなくて当然な話だ。
初めての出産なんて、恐怖でしかなかった。

産んだら自動的に子育ての能力が出て来る訳じゃない。
母親になったのだからちゃんとしなさい、と完璧を期待される。
父親でさえも、妻に責任を押し付ける人もいる。

母性本能も責任感も持っているのだ。
でも、それと経験値や能力、知識のあるなしは関係ない。
出産で疲労困憊したまま、追い詰められて鬱になってしまう。
私も、何故か悲しくて涙が出てきた時もあった。
ギリギリだったと思う。

だから、男性の育児休暇、家事育児分担は必要なんだ。
子どもの命、母親の心身の安全の為に。
重荷、疲労を分け合うべきだ。

こういう事も、今だからこそ言える。
若い頃は、そんな事を言える時代でも環境でも無かった。

二度と生まれかわりたくはないけど、
もしまた平和な日本に生れて来たら、
結婚しないか、しても違う生き方をしたい。
とは言っても、今の記憶が消えているから無理か、
また同じことの繰り返しになるかも?




相変わらず、子ども等が交互に帰宅する。
今夜も泊まりがけで来る。

明日の弁当を頼まれた。
久し振りに作る事になる。
何年も長い間、お弁当を作ったのに、
変に緊張?する。
ちゃんと美味しく作らなきゃと張り切りすぎ?

と言っても、凝ったものは作れない。
手抜きと言えば手抜き。
朝はいつも早く目が覚めるから、慌てずゆっくり作れるはず。
私が子どもの頃は、冷凍食品もレトルトも無かっただろうし、
昔のお母さん達は料理するのが大変だったろうなあ。

最近の冷凍食品は優れものだし、
忙しいママさん達の強い味方。
手抜きだとけなす大人もいるし、学校でもお弁当の内容を馬鹿にする虐めも
問題になっている。

 我が子は、お弁当に親の愛を感じるらしい。
以前も書いたけど、どんな手抜きでも、
作ってあげるととても喜ぶ。
それがまた私の幸せになっていた。
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それに比べ、自分は親への感謝が全く無かった。
母の作るお弁当が恥かしくて、隠して食べていた。
いつも残して帰っていて、母はがっかりしていた事だろう。

母が自分の死を覚悟した時、
「人生で一番楽しかったのは、子ども達のお弁当を毎朝作っていた時だった」
と私に話した。
父と私と弟の3人分を、毎朝作っていた時期があった。
きっと大変だったと思うけど、
母は自分が一番頑張った時だったと自分を褒めていたに違いない。
そう思ってくれた事で、こちらも救われた。

確かに一番大変だった時の事が
後になってから、一番自分が頑張った時だったと
楽しい思い出に変わっていくみたいだ。

さて、変に緊張している自分がおかしいけど
明日朝は頑張って作ろう。

もうあの頃みたいに毎日何年も朝早く起きてお弁当作るのは
2度とできないし、したくないなあ。
今は、たまに作るからいいのだ。




いつまで運転ができるのか、わからないけど、
若い時よりも運転が怖くなってきた。
目の調子が悪いのも原因だけど、ヒヤリハットを体験すると、より慎重になる。
このまま無事故の記録を維持したまま終われたら良いけれど。

どこにでもドライブできる人が羨ましい。
元々運転は好きでは無く、生活の為、仕事の為にやむを得ず乗って来た。
だから、他人を乗せるのはできるだけ避けたい。
もし、事故したらと思うと怖い。本来私は怖がりだ。
とは言え、子どもが小さい時は、車があって助かった。

病院に何度乗せていったことか、
部活の試合の競技場への送迎もあちこち行った。
仕事でもタクシー並みにあちこちに運転して行った。

ちょっとした引っ越しの手伝いも、車に家電を乗せて運んだり、
思い出すと、色んな事で車を使って来た。
免許を取った時は、ここまで運転するとは想像していなかった。
長くペーパードライバーだったが、
結婚し、夫があんなで、1人で子ども達を育てる為には
絶対に車が必要だった。
その費用も全部自分でどうにかするしかなかった。
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今は、自分の為だけにしか使わなくなった。
たまに子ども達から、飲み会や、結婚式の会場、イベント会場までなど
送迎を頼まれる。

先日、片道1時間ほどの郊外のある場所に、子どもから送迎を頼まれた。
目は見えにくいし、頭がぼーっとしていたので不安だったが
私が断ると困ってしまう様だったし、不安なだけでやめてしまうと何もできない。
逆に運転中の方が集中して気は紛れる。

実際その通りで大丈夫だった。
運転しやすい道でもあり、帰り道は気分の良いドライブになった。

子は、急に静かになったなと思ったら疲れて寝ていた。
私の運転を信頼してくれてると思ったら
そうか、赤ん坊の時からいつも私の運転であちこち行ってた訳だしなと。

(今では、自分の車でどこへでも運転し私よりずっと上手。)

色んな事を思い出して、ほのぼのとしてとっても幸せな気持ちになった。
この前までチャイルドシートに座って、私の運転に命を任せていた子が
こんなに成長して、今もたまに私の車に乗っているシーンが
急に感動的に思えて来た。

反面、夫の運転は皆嫌いだ。
危険な目に遭わされた記憶しかない。
危ないことは1人の時にやってくれ。
家族を故意に危険な目にあわせようとしているのかと思う位だ。

事故はよく起こしている様だが、
何故か、ピンピンしているのが不思議だ。
それももう遠い過去。むこうには幸せな思い出なんて無いだろうし、
不要なのだろうから、どうでもいい。
早く自滅してほしいと思う。

私はこのまま楽しく自由にやっていくから。


私は全くお酒が飲めない。
飲みたいのに、身体が受け付けない。
慣れたら飲めるかと色々練習してみたけど、
身体がお酒を毒と認識して、悲惨なことになる。

無理に飲んで、身体壊すのもばからしい。
子どもができてからは、完全に諦めた。
いつ熱をだして、車を運転するかわからないし、
長期間一滴も飲んでいない。

お酒が飲めたらどんなに良いだろうとずっと思っていた。
人生変わっていたと思うし、もっと楽しく生きられたのではと。

毎日、ノンアルで気分だけ楽しむ。
飲めなくても、飲んでいる気分になれる。

独身の頃は、頻繁に友人と飲み屋に行っていた。
飲んべえの友人の相手が楽しくて、飲んでいないのに酔ってる?と言われるほど。
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自分がお酒に強い体質だったら、依存症になっていたかもしれない。
夫へのストレスをお酒で晴らしていたと思う。
その点を考えれば、飲めない方が良かったのかも。
今頃健康診断で、びくびくしていたかもしれない。

酔っ払いは嫌いだけど、ほろ酔いを経験してみたい。

会いに行きたいと思っている県外の友人は、
お酒が大好きで、独身時代は彼女によく呼びだされた。
「1人で○○で飲んでるの。出てこない?」
帰宅したばかりでも、また電車に乗って店に行っていた。
毎日のように、誰かと飲み屋に寄り道して帰っていた、好景気の時。

あの頃は、色々ドラマみたいだった。
(夫と再会する前は充実していた)
中高年齢の人は、誰でもそうなのでは?
ドラマや小説より現実の方がドラマチックで、
世の中が浮かれていた。
また、あの頃の活気ある日本に戻ってほしい。
若い人達に夢を持たせてほしい。

単純に昔が良かったと懐かしんだり、
自慢したい訳じゃない。
今の日本しか知らない人達は、これが当たりまえだと誤解している。
我々の責任だ。申し訳ない。
これは当たり前じゃ無いよ、変えられるはず。
もっと若い人達が生きやすい世の中にできるはずだよと言いたいだけ。








「私、デパートでしか買い物しないの」
と言う人、大昔にもいたなあ。
品物が良いから、安心だからというのもわかる。

でも、その人を近所のスーパーで見かけた事もあるし、
他の店に行く事もあるだろうから、
見栄を張らなくてもいいのにと思った。

委員長の人も「服はデパートで、ブランド品しか買わないの」と
言っていたが、しまむらで必死に?品選びしていたのを見てしまった。

どこで買ってもいいじゃない。
デパート、ブランドといえば、自分の価値が上がる?
そんな事で、人を評価する人はむしろお断りだと思うけど。

昭和時代では通用していたのかもしれないけど、時代は変わった。

たまに、他の方のブログや年配の方と話す中で、
”バブル時代の自分が真実の自分”と信じていて、
あの頃の豊かさが忘れられない方もちらほらおられる。
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「今の自分は本当の姿じゃないの、
もっと高い物を買ってたし、仕事ができて
周りに評価されたの、それが本当の自分なのよ」
と未だに過去を引きずる方もいる。

あの頃は、誰もがそう思ったのでは?
今の自分も本当の自分。いいじゃない。今のままで。

私なんて、裕福だった体験の記憶もないし、
あの頃は最高だったと思える時期はあったけど
でも、それは年齢と時代のお陰だったんだ。と思っている。

こんな世の中に誰がした。
私たち、大人の責任だ。
また、未来に夢を持てる時代がきてほしい。




子どもが小学生の頃、PTAの役員をした時の思い出。
文化委員だったかな?
あまり忙しくなかったような?
学校全体で30人位だったかな。

自ら委員長に立候補した6年生のママがいた。
忙しそうな委員長を押しつけられても嫌なので、皆喜んでいた。

活動に熱心なそのママさんは、皆より年上で
上の子どもさんは結婚されていた。

月に1度は集会を開いていた。
場所はいつも、その方の家だった。
学校で行えば良いのに、何故か自宅でされていた。
家をPTAの集会に提供されるとは凄いなと皆、感心していた。

お宅に行くと、広いリビングに通される。
いつも、半分の人数しか参加しないのだが、
それでも10数人を入れられる部屋があるから
家でやれる訳だ。

集会では、委員長さんのお宅ということもあり、
話し合いというより、委員長の独裁的な進行になっていた。
大企業にお勤めのご主人の話や、同居のお姑さんの愚痴、
お嬢さんの結婚式に、いくらお金がかかったとか、
自分にしたら、自慢話?に聞こえる様な話が多く、恵まれた生活をされていた。

ある時など、古着を沢山並べて
欲しければどうぞと皆に見せていた。
「うちは、デパートでしか買わないの。全部ブランド物だから安心して」
と話していた。集会と言う名ではあるが、これは何だろうと違和感があった。

御主人の収入が良いと、こういう生活ができるんだなあと
お宅に来ていたママたちは、ため息をついた。

ある時「皆さん、私が家に送って差し上げるから、車に乗って」と言われた。
狭い校区内だから、送ってくれなくても近いし、と断る人が多かったが、
殆どの人が強引に乗せられた。 
マイクロバスみたいな大きな車だった。

出発すると
「ちょっと用を思い出したわ。皆さんを送る前に、少し寄るところがあるんだけど
いいかしら?」
と言われた。

別にいいですよと皆で答えると、
どこか離れた方へ、車は走りだし、
とある小さな店の前で止まった。

「さあ、皆さん、降りて。この店で買い物をして下さいね」
と言うのだ。
は?え?と戸惑う顔のママたち。
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そのお店は、アクセサリーや、小物を売っている小さな店。
「私の友人のお店だから、よろしくね」
と言っている。
そして、お店の経営者の友人に
「ほら、沢山連れて来てあげたわよ」
と恩を売っている。

私は、見るだけにして、何も買う気は無かった。
腹がたっていた。近い場所なら、そのまま歩いて帰宅したのだが
それができない遠い場所まで来ていた。

それに、子どもが間に入っているPTAの繋がりだから
上手く付き合っていかないといけないしと
今だけの我慢と、言い聞かせ、なるべくこの人とは話さない様にした。

何人かは、御機嫌を取っていて、
ネックレスを買っていた様だったが、
御機嫌を取るあまり、自分の学歴に嘘をつく人もいた。
(そんな話までしているのも驚いた)

でも、旦那さんがまともだと
どういう形であれ、奥さんが活き活きしているし、
子どもさんの結婚式も、親がきちんとやってあげられるし、
堂々とそういう話ができるだけでも羨ましく感じた。

でも、騙してお店に連れて行った様な、
あんな事はしたくないが。
それだけでなく、この人の行動はエスカレートしていき、
集会を自分が関わっているボランテイアの活動の宣伝に利用し、
寄付まで強引にやらせようとした。

「宗教みたいな事はやめてください」
と教頭先生から委員長にクレームが入り、ホッとしたのだった。









もし、あの時、私のお迎えが遅くなり、
猛暑の日で、エアコンもついていなく、
窓も閉められ、鍵のかけられた部屋に閉じ込められた子が、
お迎えの時に部屋でぐったりしていたら?
園はどう責任をとったのか。何て言い訳しただろう。

あのバス事件の園長みたいに
「部屋から出たと思い込んで鍵をしめた」
と言ったかな。いや、あの部屋は、
我が子のクラスの部屋じゃなかったし、
絶対いるはずのない場所だった。

捜査が入れば、40代のこの先生は証言してくれたかなとか
色々想像してしまう。

そんな体験をしたから、
登園バスの中で亡くなった子どもさんの事件を思うと
他人事には思えないし、園が真実を話しているかどうかも疑う。
こういう事故が起こるたびに、
過去の嫌な思い出が甦る。

介護、保育の業界の給与が低く、
人材不足による職員の精神、肉体的な疲労も
虐待や事故の要因の一つかもと言われる。

下の子の園の先生方は、公務員であり
収入は安定しており、残業もなく、時間外はパートさんを雇っていて、
公立なだけあって経営の危機感も無く、それは理由にはならない。

全て、個人の体験に基づく想像に過ぎないが
これを書く事で、私の親としての心の痛みもこれで成仏させられたかなと思う。
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子育て中には、感動したり楽しい事も多いが
自分のやり方に対して後悔することや
不安、焦り、などなど心を痛める事も多かった気がする。
ついカッとなって叱った後など
後悔して落ち込む事も多かった。

夫や仕事のことで、ついイライラして八つ当たりしてしまう。
それだけは、気を付けようと思っていても
未熟な自分ではなかなか難しかった。

それも今となれば、完璧な親なんていないし
皆そうやって奮闘している。
悩んだり、怒ったり、泣いたり~それが当たり前なのだ、
子育ては自分育てなんだなと感じた。

子どもには、自分を育ててくれてありがとう、
色んな思い出を残してくれて
ありがとうと言える年齢になった。







小学生になってから、子どもが当時の記憶を一気に話し始めた。
「あの時、○○先生にされた事は忘れたくても記憶から消えないと思う」
と言っていた。
聞くとやっぱりそうだったのかと思える様な事をされていた。
給食のおかずをわざと取り上げて、
食べさせないで、ゴミ箱に捨てられたり、
ある子だけ椅子を隠して座らせない、
その日の気分で無視する子を決めたりなどの事をされていたと言う。
これを2歳児にしていたのだ。鬼畜。
子どもが泣けば「あなたが悪い子だからよ!」
と言うだけ。

補助の先生もいたはずだが
何も言えない力関係や理由があったとしても許せない。
日常的になりすぎて、それが当たり前になっていたのかもしれない。

子の心の傷として残っていた。おそらく他のお子さんも。
我が子は、心の中に溜めていた悔しさを吐き出したことで、
今は成仏させたようだ。

今では先生より力は強いし、自信もある。
当時、大きくて、怖くてかなわないと思っていた先生は
今は中年の弱々しい小柄な女性にしか見えないことだろう。
「自分は絶対あんな人間になりたくないし、
あんな行動は絶対許さない、目にしたら絶対やめさせる」
とやたら正義感の強い大人になっている。

反面教師にしてくれただけでも(親としては心を痛めていたので)
少し救われたかなと思う。
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保育士さん達は、子どもたちが幼くて
言葉がうまく出てこない時期でも、
嫌な事も良い事もしっかり記憶に残り、
一生、先生の名前も顔も覚えている子もいるという事を
頭に入れておいていてほしい。

大人に成長した後に、偶然、見かけた保育園の先生方の中で
むこうは「小さかったから覚えてないよね」と、黙って通り過ぎる事がある。
でも、子どもはしっかり記憶しており
挨拶をすると「覚えていたの?」と驚かれる。

良い思い出の先生のことは特に一生記憶に残る。
嫌な事をされた先生のことも、しっかり残る。

「そんなことあったかしら、幼児だったしもう忘れてるでしょ」
なんて甘く考えて、自分の行動を振り返ることもなく
同じやり方で仕事をしてきたあの先生達には、
「いつどこで、誰に話題にされているかわかりませんよ」と言いたい。
しかも、この酷い先生方は、公務員だった。
今頃、偉くなってどこかで園長とかになっているかも。
若い親たちに立派なご指導をされていることだろう。

子どもは成長する。
すぐに大人になり、先生より背も伸びるかもしれないし強くなる。
いつどこで出会っても
「あの時、先生にされたこと、今でも忘れてません」
なんて言われるかもしれない。
もしかすると
「私を悪い子だといつも言われていましたね。
それが原因で、自分に自信が持てず、人生狂いました」
なんて言われたら…。(ないとは思うけど)

その時に、自分の過去の行動の罪深さを知る事になって、
後悔しても時は戻せない。







いつもより早めに園に迎えに行った日のことだ。

その日の担当として、異動してこられたばかりの40代の先生と
30代の先生が2人、計3人の姿が部屋の中に見えた。
全員を1階の大部屋にまとめて座らせ、絵本の読み聞かせをされていた。
他の先生もまだ廊下を歩いておられたりと
お迎えに来る親もまだ少ない時間帯だった。
子ども達の声が響いて、賑やかだった。

いつもより早くお迎えに来た私を見て、
40代の先生が我が子を帰すべく、部屋を見渡し、探していた。

なかなか来ないので、外から部屋を覗くと、我が子も40代先生も見えない。
トイレに行っていたのかなと待っていると、2階から先生と我が子が降りて来た。

あれこれ必死で探してくれたのは、40代の先生だけだった。

他の先生方は、何も知らない風にこちらを見ることもなかった。

40代の先生が、
「すみませんでした。○○ちゃんの精神状態が心配です。
お家に帰られたら、様子をみてあげてください。こちらが悪いのです。
私は、こういうやり方に問題を感じていますが、どうしようもなくて」
と頭を何度も下げた。

子どもは、泣いてもいないし、普通にしていたし
何のことかさっぱりわからない私は、
「どういう事でしょうか」と聞いた。

我が子は、誰もいない2階の1部屋に、
30代の保育士により故意に閉じ込められており、
そのことを忘れ去られていたのか、放置されていた。
その保育士は私が来ても無反応で、
他の園児たちの世話をしていた。
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我が子は何故、閉じ込められたのか。
40代の先生が言うには
「大人しい反抗しない子を選んで、いう事聞かない手を焼く子の前で、
わざとお仕置きして見せて、その子を見せしめにして、
子ども達を脅すやり方でいう事をきかせようとする保育士が何人かいて
それが、この園では当たり前になっているようなんです。
親が迎えに来る前には、部屋に戻すからばれない。
2~3歳の子ども達ははまだ、うまく話せないし、
あなたが悪いからよと言えば、親には話さない子が多い。
私は、最近この園に来たばかりですが、こんな事許せません。
園長も見て見ぬふりです。」
の様な事を教えてくれた。

「○○ちゃんは、何も悪くないのです。
子どもさんの心の傷になるのが心配です。」
と言って、その先生のせいではないのに
何度も私に頭を下げ、我が子にも「ごめんね、ごめんね」と謝ってくれた。

それを聞いて、納得のいく事があった。

その1年前に、突然園に行きたくないと泣く日があり、
恐怖に震えた様な顔をしていたのだ。夜もおびえてないていた。
まだうまく話のできない歳だったし、
「余りに様子がおかしい、園で何かあったのですか」と
園長と担任に、問いただしたことがあった。

当然誤魔化されたが、後にその内容はわかった。
他にも色んな虐待めいたことをされていたのかもしれない。
抵抗しなそうな子をターゲットにして。

当時、園に問いただした事は良かったと思った。
うるさそうな親の子には気を使う様になったのか。
それ以降、園には楽しそうに行くようになった。
その担任は異動になった。

が、他の若い保育士が、悪い影響を受けたのか?
似た様なやり方をやり続けていた。
この園内派閥というのは、
虐待に近いことを指導とする保育士たちと
それはありえない、問題だと反発するまともな保育士たちとの対立があったとのこと。
前者の派には、主任がおり、力が強く、園長も言いなりで
まともな先生方がやり方を改善することができなかったという。

幸い、我が子は、部屋に閉じ込められてもマイペースで
そこで好きな絵本で遊んだり自由に遊べたと言い
全くこの件に関しては、大丈夫だった。

翌朝、登園時も、40代の先生が走り寄ってきて
「あれから大丈夫でしたか?○○ちゃんの心の傷が気になって。本当に申し訳なく思っています」
と声をかけて下さった。
それで、私は救われ、この先生がおられる間は安心だと思えた。

今なら、市に直接苦情を言うのだが、
証拠の動画もなく、とぼけられたら終わりだろう。
そして、この40代の先生にも何かの圧力がかかりそうだし
当時の私は弱く、何もできなかった。

それから卒園するまでに、
先生達の入れ替わりがあり、
良い先生がどんどん入って来られた。
こんなに違うものかと、子ども達を見ていて驚いた。
園の雰囲気も主任がいなくなり、変わってきて
卒園する頃には
良い先生方との出会いに、嫌な思い出も消えるほどで
本当に良かったと思った。




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