りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

カテゴリ: つぶやき

斜め横の奥さんがうちを訪ねるのは、子どもが小さかった時だけだ。学校の用事位しか付き合いはなかった。

近所付き合いというか、人付き合いが得意ではなさそうだった。
一度だけ、夜、家の前でたまたま会った時に話しかけられた事があった。

奥さんは家の外に立っていて、呼び止められた。そして私に話しかけてきた。
「夫が、遊んでばかりで困ってます。朝帰りばかりして。」といきなり言われた。


「ああ、そうなのですね。」としか返事のしようがなく、他人様の事に口を出したくないし、外で話す事でも無いと思い、それ以上深入りはしなかった。



仲が良ければ、後日ゆっくり、話を聞けたのだが、何となくこのお隣さんはそんな気になれない人だった。

人んちの話を聞いてしまうと、自分ちの事も聞きだされたり、話さないといけなくなる気がして、そんな事は絶対嫌だったから。


奥さんは、いつも仕事が忙しいとかで、朝早くから夜遅くまで家におられないので、めったに会う事は無かった。


奥さんは、穏やかににこやかにこう言った。
「明日から旅行に行って暫く留守をしますのでよろしくお願いします。」


これまで、そんな事を頼まれた事は無かった。良く旅行に行かれて留守しているのは知っていたが、なぜうちに、そんな事を頼みにきたのか不思議だった。



「居間のライトを防犯の為につけたままで行きますので。」と言う。

つまり、「ライトがついていても留守だから。居留守ではない。」と言いたげだった。

それまで、ご近所の事など気にも留めた事が無かったので、そこまで教えなくてもいいのにと感じた。

この斜め横のお宅とは、玄関は反対側で、うちとの間は、塀で何も見えず、あまり気にならない位置関係で、頼むなら反対側のお隣さんにした方が良いのではと思った。


そして、ご主人の名刺を渡された。「何かありましたら、こちらへ連絡ください。」


今更名刺を貰うのも何から何まで不自然だった。


それに、何で急にうちが留守中の管理を突然頼まれるのだろう?うちだって旅行にいくかもしれないし、最初からうちに頼むと決めてきた。


ばったり会って、雑談で、そういう話題になるならわかるけど、突然家まで来て、よろしくと言われても。もし泥棒とか火事になったら。責任感じないといけなくなるし。正直いって迷惑だなあと思った。



全くお付き合いが無いのに、それに、奥さんの実家や親せきが近所におられて、いつもその人達に助けてもらっているはず。


と、思ったが、一応無難な対応をした。


すると、翌日、町内の役員のある人から電話がかかってきた。それで謎がとけた。


最近、我が家の斜め横のお宅のご主人の関係で、洗濯物を干したり、窓から外を眺めるのに神経をすり減らしている。


そのお宅とは特に親しくもなく、会えば挨拶をする程度。何のトラブルもない。
ただ、こっちが勝手に気を使うようになったのだ。

そうなったのには、理由がある。


同じ町内だけど、少し離れた隣の班に苦手なタイプの人が2人いる。


以前、町内会の役員が回ってきた時、たまたま係がその2人と一緒になってしまった。


運よく?2人より私の方が、年齢が上だったので、(そういう事は気にする人達みたいで)私の子分?になりたそうな雰囲気で近づいてきた。


下手にでてきて、私をやたらとヨイショするので気持ち悪く、気を付けて接していた。


だが、係の仕事が多く、何回も2人と会ったり、電話をする事が多くならざるを得なくなった。


2人は、自分の思い通りに係の仕事を変えたり、人を動かしたいらしく、でも責任はとりたくない。という困った人達だった。


その為に、私をうまく使おうとしていたのがあからさまだった。


かと言って、私の意見はきかない、何でも自分の都合の良い様にかえていこうとするのだが、失敗したら責任は私にとらせようとする。


私が一番嫌だったのは、この二人が噂話好きで、勝手な妄想でいい加減な噂を流したり、個人情報を近所の人に教えたり、悪口を言ったり、面白がっている事だった。

私は、自分が耳にした他人の根も葉も無い噂話は、きっぱり否定したのだが、全然聞き入れてくれなかった。


早く、役目が終わって、この人達と縁が切れますようにと願っていた。


そんなある日、斜め横のお宅の奥さんが、突然うちを訪ねてきた。



昨日、子どもの友人のお父さんが亡くなられた。

その娘さんは、お別れに間に合わなかった。帰宅途中の電車の中で、電話がきて知らされたという。


まだ若いのに何て悲しい事だろう。


まだ親と別れるには早すぎる。まだまだこれから親御さんに甘えたい事、見てもらいたい、聞いてもらいたい事が沢山あっただろう。お父さんも子どもさんともっともっとこれから楽しみが沢山あったろうに。


私自身、幸いにも両親が長生きしてくれているので、この歳になるまでその辛さ、寂しさを味わずに済んでいる。今、自分が年をとり、そろそろ覚悟を決めておかないとと、考える事ができる様になった。

それでも、親がいなくなると言うのは、どんなに寂しい事か。


自分はただでさえ未熟な人間なので、もし若い時に親と永遠の別れが来たら、受け止められなかったかもしれない。

当時、もし今、親に何かあったらと考えるのも嫌だった。反抗しながらも、どこかで甘えていたのだろう。


今でも、いざという時、頼れる存在として心の片隅に親の存在がある気がする。

色々、親に対して文句は言っているが、育ててくれ、学校に行かせてくれた。

今の自分の家庭より、ずっと子どもとして安心感はあった。父親がしっかりしていてくれた。


自分の子ども達より、その点は恵まれていた。


いざと言う時、頼れる親ではない自分は、親以下だと思う。親を乗り換えないといけないのに、まだ心配させている。

その上、夫が甘えている。こんな人の為に、親不孝な人生を選んでしまったのは情けない。


この友人の他にも、子どもの知人が、白血病で亡くなったという。


同世代の悲しいお別れに、あまり親しくなかった人の話であっても、我が子はショックを受けている。




どうぞ安らかにお眠りください。そして残されたご家族を見守っていてください。合掌



続く災害。


自分も災害体験があるので、PTSDなのか、どこかで被害がでるたびに心臓がバクバクしてくる。


大阪の台風も、北海道も、被災地に友人がいる。


私が災害にあった時、この二人はメールや手紙をくれ、励ましてくれた。


今度は私がメールを送った。大変な時だろうし、届いてないかもしれないので、返信はいらないと書き足した。


自分が被害にあった時、ショックのあまり、何が起こったかすぐには実感が無かった。

遠くの友人から「助けたい。欲しい物があれば言って」と聞いてくれたりして、有り難かった。


でもその言葉も、すぐにはピンとこなかった。何が不足かなんてすぐにはわからず、大丈夫と返事をした。


暫くすると、トイレが使えない。水も食料もない。電気もとまり、何もかも不便になった。


時間が経つにつれ、不安と不便さがどっと押し寄せる。


「日本は遅れてるなあ」と実感した。テレビに映るのは、いつも同じ場所。


救援物資が大量に送られる避難所ばかりが写る。


私のいる場所は誰も来ない。何も無い。何故か隣の避難所は手厚くされていると聞く。


結局、援助の厚い?場所へ移動するしかなくなる。


テレビが見れないので、何もわからない。電源が無くなり、携帯もスマホもみれない。



阪神大震災の時の避難所の風景と今も何も変わっていない事に驚いた。
(この時の夫の行動にも嫌気がさしたが)

災害の起こる国だとわかっているのに、国は何も対策をとって来ていない事を思い知らされる。

原発の問題も。


まだ岡山、広島の復興もこれからだという時、関西の台風、そして北海道地震。


いつ南海トラフ地震が起きるかもわからない。


東北、熊本もまだ仮設住宅住まいの人が大勢いる。福島もまだまだ大変な状態。


武器や戦闘機、海外に税金を使いまくる前に、我が国の災害対策を優先すべきだろう。

防衛と言う前に、災害で日本は自滅してしまう気がする。




 

これも古い話だが、私が中古車を探していた時、弟が知り合いの店まで連れて行ってくれた事があった。

弟はいつも外出する時は、子どもを連れていた。


普段から奥さんよりも弟の方が家事も子どもの世話も負担は大きかった。

それを母が不憫に思い、助けようとするから益々、奥さんは子育てをしなくなっていた。


なので、まだ手のかかる幼児だった姪っ子を弟は連れてきて、車屋さんに一緒に行った。


そこで車を買ったのだが、説明や書類を書いたりしている間、普段から甘やかされている姪っ子は幼児らしく動き回った。


私は車屋さんと打ち合わせ中、姪っ子がうるさく、弟に注意するかどこかに連れ出すかしてほしかった。

が、弟は放置したままで、注意しない。

親が黙っているのに私が怒るのも変だったが、仕方なく私が注意した。

しかし姪っ子は、大人を舐めていて全く聞かない。お店の中で暴れ回る。

ついには車屋さんが、嫌味を言いだした。

「あらあら。元気な子どもさんですね」と、何か店内の物をいじられないか、怪我をされないかとと気にされ、姪っ子を目で追っていた。


それでも、弟は知らん顔をしてタバコを吸っていた。

私は腹がたち、「ちょっと、ちゃんと子どもを見ときなさいよ!」と弟に怒った。


そもそも、弟嫁は家でゆっくりしてるなら、たまには家で子どもと遊んでやれよ!と腹がたった。
私への嫌がらせかと感じるほどだ。
こうなるのは予想できたはずだ。


その時だ。お店の人が私にこう言ったのだ。


「ええ?弟さんに子どもさんを見させるのですか?お母さんなのに。はあ。最近のお母さんは強いですね~」

「さっきから、子どもが騒いでるのに、見向きもしないからすごいお母さんだなあと思ってました。弟さんに押し付けないで、自分で子どもを捕まえておかなきゃだめでしょう」


私は姪っ子の母親だと誤解されていたのだ。

「私の子どもじゃないですよ。弟が連れてきたんです。」と言い返した。

弟は、罰が悪そうに笑うだけ。謝りもせず、やっと子どもを捕まえ、抱っこした。

お店の人は年配だったので、最近の若い母親は!と思ってそういう態度をとったのだろうが

「まさか、男親が子どもさんを連れてくるなんて思いもしないもので。普通、お母さんの方が子どもを連れているものですからね」

と言い訳していた。その言い方も腹がたった。


こういう事は日常茶飯事で、仕事の用事でも、職場関係の集まりでも、弟は奥さんから子どもを連れていくよう強制されていた。

どうしても無理な時は、弟は実家に子どもを置いて行った。

母は気前よく預かっていた。

もし私が近くにいたら、こんなに協力してくれなかったはずだ。弟に頼まれたら何でも言いなりになっていた。


弟嫁は、買い物やランチ、家で昼寝をする時も、子どもがうるさいからと弟に押し付けていた。
文句も嫁の愚痴も言わず、黙っている弟は、ストレスで入院したこともあった。

誰も嫁のせいだとは思っていなかった。弟嫁が、周りに仕事が原因だと言いふらしたから。

弟は、私だけにメールで本音を言った。遠まわしに。家にいるより病院が天国だと言っていた。


弟嫁と同じ事を私がしていたら、周りの全ての人から怒鳴られ、協力してもらえず、母親失格だとレッテルを張られるはずだ。

なぜ、弟たちを誰もが甘やかすのか、それが通用するのか、不思議だ。


母は、「いつか葬式をだしてもらわないけないし、世話になるから、何も言えない」と言い訳する。

弟夫婦は親が寝込んだ時、世話をする気はなさそうな事を言っている。


親が入院したらそれに合わせて、長期旅行に行くだろうというか、弟夫婦はすでにそうしている。

なのに、まだ息子に期待しているのか、馬鹿だなあ。


娘を利用するのは当たり前で、娘はストレスのはけ口。いざとなれば命令してやらせる。

男である息子には嫌われたくないから大事にすると言う。


世間体が一番。息子に世話になるのを自慢する。娘が助けても隠している。
息子の立場が悪くなるからと、私の行動は余計なお世話らしい。

だが、下の世話などは娘がやって当然だと。息子夫婦に悪いという。

男女差別はまだまだ根深い。


弟の家だけは女尊男卑。極端だろう(笑) 



 

山口、周防大島の2歳児が行方不明だった件、無事見つかって良かった。

速報を聞いた時は、涙がでるほど嬉しかった。

恐かっただろうに、山の中で3日間過ごした男の子はよく頑張ったねと抱きしめたくなった。

それにしても、発見した78歳の尾畠さんには感動した。


今朝からテレビに引っ張りだこで、年齢を感じさせない体力、気力、ジョークで人に笑顔をさせる力に、益々驚いた。声が若くて張りがある。

ボランティアを始められた理由、信念、感謝の気持ち、恩返しという言葉。


一見小柄で、心配になりそうな感じに見えるのに、凄い行動力。

こういう人がお父さんだったら、どんだけ安心感の持てる生活ができた事だろう。


「色んな人に助けてもらって、働いてこれた。恩返しをしたい。」と思う事を即、行動に出す強さ。


欲が無く、見返りも求めず、自分がやりたいからやる。人に迷惑をかけない完璧な自己完結。

夫とは真逆な人だ。少しはこの人の爪の垢を飲んでほしい。


尾畠さんを見て、世の中にまだこんな立派な方がおられたんだと、嬉しくなった。


 


急遽、一泊旅行に行く事になった。

と言っても、まだ先の話で、とりあえずホテルだけ予約した。


ある海外アーティストのライブだが、これだけは借金してでも行く。どんなモラハラをされても行くと決めている。

夫には、一生自分からはいちいち言わない。夫はこの何十倍もの好き放題をしているのだ。
それなのに、嫌味を言ったり、嫌がらせをする。
自分から離れていったくせに、自分のいないところで、妻子が楽しい思いをするのが嫌な様だ。


こういう趣味も無いと、私はずっと我慢ばかりしてどこにも行けない、つまらない人生を過ごしてしまう。


本来なら、これまでの長い間に、家族でこの何十倍もの楽しみを味わえたはずなのだ。

もし、計画がばれて嫌がらせが始まったら、百倍にして返してやろう。

「本当ならあなたが家族にしてあげても良い事でしょう?今まで家族と一緒に何かしたの?自分の事だけ優先にして、人に嫌味いう資格なんかない!バーローッ」とでも言ってやろうか。(笑)


敵もさるもので、反論されるのを予測し、陰湿なやり方をしてくる事がある。


普段無視するくせに、用も無いのにわざとその日に電話してきたり、帰って来たり、子どもに近況を聞いて来たり。偶然を装っているつもりが、ばればれなのだ。


私が、夫の陰湿な嫌味に対して反論すれば「えっ?そうだったの。僕は何も知らないよ。被害妄想だよ」ととぼけるのも予想済み。

「ふーん、余裕あるんだねえ。僕なんか食べるものも無いというのに」と、ぶつぶつ嘘を言うのがいつもの事。そして経済的モラハラ。

せっかく楽しい計画を立てるのに、こんなくだらない事を考えてしまっては、馬鹿馬鹿しい。奴の事は無視だ。

この歳でも、楽しみができたのは救いだ。感謝。


 
 

自分は、独身の時、生きる事に執着していなかったと思う。

「いつ事故や病気で命が無くなっても、運命だし、別に思い残す事はない」と思っていた。

自分の未来が想像できず、もしかしたら自分は長生きできないのかもと薄っすらと思っていた。

それは健康だったからだろう。
健康を失って初めてわかる有り難さと言われる様に、軽いいい加減な気持ちで生きていた。

子どもができたら、責任感が重くのしかかった
「これからは、長生きしないといけない。私の身体は私だけのものじゃないんだ。子どもの為にしっかり生きなければ!」と思ったのを覚えている。


叔母のトキ子さんが言っていた。
「この世は修行よ。人は修行をする為に生まれてくるのよ。楽しいだけの人生なんてない嫌な事だらけで当たり前なのよ。」

結婚する時、お祝いの言葉として誰もが言う「幸せになってね」の言葉。

結婚相手から言われる言葉「幸せにするよ」「幸せになろう」「君となら幸せな人生が送れると思った」などなど…

「幸せに」という言葉を簡単に口にする。結婚したら毎日バラ色の生活が待っていると錯覚してしまう。

幸せって何だろう。人それぞれにハードルの高さも価値観も違うから、色んなイメージがあるだろう。
形があるものでは無い。心で感じるもの。

失った時、初めて強烈に気が付くもの。心安らかに生きられること。かなと思う。

大きな災害にあったら、それまでの価値観が変わる。

私も少しだが変わった。

今日こんなに幸せでも、不幸でも、明日はどうなるかわからない。どんなに満ち足りていても、明日は全部無くなってしまうかもしれない。
逆にどんなに未来を悲観しても、いつラッキーな事が舞い込んでくるかもしれない。


10年前の自分を振り返ると、今の自分はもっと不幸になっていると思い込んでいた。あの頃はそう思っていた。

振り返ると何とかなっている。幸せとは言わないが、想像していたよりはずっと自分の心は平穏だった。

こんな事ならもっと気楽に楽観的に過ごしていたらよかったと思う。

慎重に計画的に生活していくのは良い事だが、心配しても今どうしようもないなら、考えない方が良い。もったいない。

結果が同じなら今を楽しく生きた方が良さそうだ

いつ突然の腹痛が襲って、失神するかわからないという不安の為、電車に乗る時は動悸が激しくなっていた。

昼間は幼い子どもと二人で、もし私が突然気を失ったらこの子はどうなるんだろうとか考えて居ると益々外出できなくなり、孤立感が強くなった。

ある日、昼間に腹痛がきた。一瞬不安がよぎったが、出産後、初めて訪れた生理だった。

キリキリとした痛みは、あの時の傷みと似ていたが、子宮が収縮した時の痛みだと思った。

そこで、腹痛は子宮が原因ではないかと気がついた。今思えば、なぜ最初にそれに気が付かなかったのか不思議だ。


産婦人科に行ってみた。すると内診した医師がすぐに言った。

「これは、産後の処置が悪かったようですね。産後排出されないといけなかった物が残ったままになっていたのでしょう。子宮内で感染し、その痕がケロイド状になっていますよ。」

それで、生理が復活しようとして、子宮が収縮した時に、その部分が傷みを発したという事の様だった。


あまりの傷みで、迷走神経反射をおこしたという事か。


そう言えば、産後の処置は確かにひどかった。

当時、転勤で実家は病院の少ない地方に引っ越していた。産婦人科も少なく、その為にいつも患者や妊婦さんにあふれ、一人しかいない医師は過労気味。
私の出産の時は、医師も婦長も不在で、新人看護師しかおらず、ぎりぎりまで冷え切った分娩室に放置されるという状態だった。


初めての出産は、ドタバタして酷いものだった。病院を選べないというのは何かあった時に困るものだ。

産後一か月検診で、「子宮に残留物があるから出します」と言われ、いきなり麻酔なしで処置された。出産より痛かったし、感染予防の薬もその後の生活上の注意も無く、そのまま帰された。


おそらくそれで、知らない間に傷口が感染し、自然治癒した後子宮壁がケロイドになったのだろう。
熱がでたり、痛みがでない程度だったから気がつかなかった。

本来なら、病院は、処置した時についた傷が化膿しない様に抗生物質など感染予防をし、しばらく安静にと注意をするべきだったのではないか。

付き添った母も、昔の人で自宅で産んでいる為、そういった知識はなく、実家では私を安静にさせる気は全くなかった。

私は産後は全く眠れず、休めずだった。

何の為に実家で出産したのか意味がないのではと、思うほどだった。

母は、私の身体よりも、世間体を優先。「どんなに体調が悪かろうが、産後の肥立ちが悪いなんて、みっともないから、40日経ったら、絶対に帰ってもらうからね。」

といつも言っていた。だから、フラフラしながら赤ん坊を抱いて帰宅した記憶がある。

今思えば、若い頃の私は強く自分の意志を言えない、抵抗できない人間だったのだ。今思えば、あの頃の自分が情けないし、可哀想になってくる。


診察した産婦人科の医師は「これはどうしようもない事で、昔は血の道といって、多くの女性が苦しんできた症状なんです。もし、また痛みがきたら我慢しないですぐに薬を飲みなさい。そしたら大丈夫だから。」と私の不安感を取り除く事を優先してくれた。


優しく安心させてくれ、痛み止めの薬をだしてくれ、それだけで、私はだいぶ救われた。


そして「完治させる方法はありますよ。出産する事です。また子どもを産む事により、子宮の壁は新しく生まれ変わりますからね。」

と言われた。これらの話が全て真実かどうかは確かではない。でもその時はそう言われた事で精神的に楽になり、救われたのだ。


夫に不信感があり、もう子どもなんていらないと思っていたので、二人目は無理だなと思っていたのだが、それから3年後に二人目を出産し、本当にこの症状は完全に無くなった。

2度目の時は、幸いに実家は都市部に転勤しており、出産する病院も慎重に選ぶ事ができた。


出産は病気ではないと言う人もいる。

とんでもない。一歩間違うと一生重い体調不良を抱えたり、感染して命を落としたり、大出血を起こしたり、子どもの命も母親の命も危険になる事だって、ありえるのだ。

昔の女性は、嫁という立場で何も言えず、産後の肥立ちが悪い事を恥と思われ、一生我慢を強いられてきた。

私は、自分が嫌だった事は、絶対に子どもにはしないと決めてきた。
自分が誰かのお産の世話をする時は、母親になった人の一番の味方になろうと思った。

先日、迷走神経反射の事を書いたが、私はこれまでに一度だけ気を失った事がある。


その時の事を思い出してみよう。


★第一子を出産して数か月過ぎた頃だった。

深夜熟睡していた時、突然激しい腹痛が襲って目が覚めた。

それまでに感じた事の無いほどの激痛。


腸がねじれた様な痛み。いつもならじっとすれば、次第に落ち着くのだが、どんどん痛みが強くなっていく。

とりあえずトイレに行った。お腹が張ってきて苦しい。

何もでない。苦しい!と思ったところまで覚えているが、その後の記憶が無い。

目が覚めたら、トイレの前の廊下で倒れていた。怪我もしていないから、おそらく無意識にトイレの外にでて、寝ころんだのだろうか。

失神していた間、夢を見ていた様な不思議な幻覚を見た。

ものすごい大衆が倒れている私を見てざわついているのだ。ざわざわと声がする。


意識が戻った時は、なぜここにいるのだろうと訳がわからなくなっていた。どの位、そこにいたのかも全くわからない。

寒気がしてきたので、布団に戻った。

すると再び腹痛が襲ってきた。前回ほど強くはなく、がたがた震えがきたので、おなかを温めてると収まった。

その後は何ともなかったが、痛みの原因がわからず、とりあえず近所の内科へ行った。

結果は異常なしだった。胃腸はどこも悪くないと。「腹痛がして失神したなら脳の異常ではないか」と言われ、脳外科を紹介された。

幼い子どもを夫に預け、1人で遠い脳外科まで行き、検査を受けた。

結果は異状なしだった。


ホッとはしたけれど、「あれは何だったのか、またあんな事があるなら不安で外出もできない。しかも小さい子どももいる。夫はあてにならない。どうしよう。」と不安で一杯になった。

夫はその頃から家にほとんどいなかった。私の事も他人事みたいだった。

親戚も親も誰もいない土地で、あの頃の私は孤独で、身も心もくたくただったと思う。


体重も今と比べると、10キロは少なかった。

★その前にも、疲労で寝込んだ時があった。

具合が悪かろうが、子どもの世話は私しかやる人がいないから、フラフラしながら家事と育児をしていたのだが、夜には倒れこむ状態。
帰宅した夫に「体調が悪いから協力してほしい」と頼んだ。


すると「甘えすぎだろ。毎日楽してるからだらけてるだけだ。」と言われた。


私は、翌日から食べ物を受け付けなくなり、胃腸も壊れた。

そんな時に、何も知らない私の親が、はるばる地方から遊びに来た。

私の様子を見て驚いて、夫に「どうしてここまで娘を放っといたのですか。子どももいるのに。」と聞いた。

それでも「何も言わないこいつが悪いんですよ。僕は何も知りませんでした。」と言い返し、更に私にむかって「あんたのせいで僕が誤解されるじゃないか。何でこうなるまで病院に行かなかったんだよ」と言った。

その頃の住居は、山の上のニュータウンにあり、病院に行くにも買い物に行くにも不便な土地に夫が新居を決めていたのだった。

車は無く、バスと電車を使わないとどこにも行けなかった。

「赤ちゃんを抱っこして病院に行く元気も無いのに。」と言いたかったがそんな気力も無かった。

後に、姑から手紙がきて「赤ん坊もいるのに、そんなに弱いと困ります。しっかりしなさい。息子が愚痴ってました。」と書いてあった。

失神したのは、それからしばらくしてからだった。
流石に、そこまでの事があると放っておけなかった夫は、子どもを見てくれて、やっと私は病院に行けた。


あの頃の私は、若さのせいと、家庭環境の影響もあったと思うが、我慢する方が楽で、面と向かって反論する力も自信も無かった様に思う。

当時予期不安が強くなり、外出が怖くなっていた。

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