今年は電気代が高い。(´;ω;`)
原材料の値上げもあるし、使用料も昨年に比べて増えていた。
今年は昨年より寒いんだっけ?と思いながら
1年前の今頃を思い出すと、母がまだ生きていたんだなと気が付く。
今頃は、精神的に一番辛そうだった。
すぐに家に帰れると思っていたのに、手術もしないし、
抗がん剤も効いていない、自分はどうなるのだろうと不安が押し寄せた頃。
コロナ禍で、お見舞いも許可されない、孤独な入院生活。
毎日、私と弟と電話で話すことで、気を紛らわせていた。
2月の20日には、緩和ケア病棟のある病院へ移動。
それまでに、本人に真実を話さなければいけなかった。
20日の移動中なら、こっそり会えると思い、私は急遽帰省した。
(検査キットで陰性を確認して、病院には内緒で。
その後、面会したのは、2週間の待機期間を過ぎてからだった。)
弟の車の中で、やっと母に会え、
僅かな時間、実家に母を連れて行き、話ができた。
実家に帰った時の母は、自力で歩く力も無く、私が介助した。
あの日の事を、母が後日電話で私に言った。
「家に帰った時、全然嬉しくなかった。どうせ私はもうだめなんだと自棄になっていたから。
薬が効かなかった、転院しましょうと医師から言われた時、医師から見放された、
私は1週間以内にこの世からいなくなるんだなと思った。」
と。
あの時の母は、まだ長く生きていけるかもと、
医師が何と言おうと、母の魂がしっかりしていたので、
私は希望を持っていた。
転院してからは、調子の良い日は
「私、このまま、長く生きていられるかも」
と希望を口にすることもあった。
そう思わないと気がおかしくなりそうだったのだろう。
電話では、口調がしっかりしていたので、
私は、本当にこのまま何年も生きるのではないかと希望を捨てなかった。
だから、亡くなる直前まで、母とは希望をもって明るく接していた。
それにしても、あの時の、母の「肉体と魂のずれ」が今でも戸惑いを残している。
肉体はいまにも滅びる寸前なのに、魂はどんどん若返り、綺麗になっていった。
姿を見せない、声だけの会話だったからか、50代の頃の母の様だった。
すでにあの世に行ったり来たりしていて、
あれは電話じゃなくて、あの世から話しかけていたのではないかと
だから、声が若くてしっかりしていて、
自分に起こる事がわかっていたのかなとか。
そう思う方がしっくりくる。
病院から「危険な状況になった」と弟に電話が来たと同時に
母が私に電話してきて
「私はもうダメだから、明日あさってにはいなくなるよ。
病院から連絡があるから、待機しといて」
みたいな内容の事を言ったのは、最後の力を振り絞り、
迷惑を書けないよう、しっかり伝えようとした母の凄さなのだけど、
どう考えても、あの世から母が連絡してきた様な
不思議な感じがしたのだ。
今母から電話がきたよと弟に言うと、
「え?ありえないでしょ。」と驚いていたのを覚えている。
翌日、最後の会話をした時、
「昨日は苦しかった中、私に電話してくれたのね。~」
みたいな事を伝えたが、母は黙って私を見て、物凄い力で私の手を握りしめた。
どこから、あんな力が出たのだろう。
思わず、痛い!と叫んだほどだ。
その時の母の目力が強かったのを覚えている。
昨年の今頃、まだ生きていたと思えるだけで救われる。
まだ、近くに居る様な気がするから。
1周忌が過ぎると、遠くに行ってしまう様な寂しさがある。
遠くに行ってしまうというのは、
自分の中の母の記憶、声、仕草、臭いなど、
そして、看取った時の感覚、その記憶が薄れていくという事なのだろう。
看取っていなければ、ここまで思う事は無かったかもしれない。
最期に近づくにつれて、母が私だけを信じると言い出し、
後はこうして、と指示を出し、最期を予言する電話をし、
最後に強く手を握りしめ、
私と二人、最期に一緒に過ごした後にさようならした。
お別れの時、悲しさ以上に、凄い幸福感を与えてくれた。
神秘な体験をさせてくれた母に感謝する。
それと、矛盾するようだが、
母から長年、頻繁に電話がきていたのが、
突然来なくなった事が、最初は寂しく悲しかった。
気が付くと、母の電話の後、いつもイライラしていたのが、
今では毎日、心穏やかになっている。
母の電話が私の心を乱していた事も事実だったのだなと実感している。
私には、2人の母が居た様だが、心に残るのは最期の母になっている。