母が緩和ケア病棟に移動した時、
ああ、もう自分はだめなんだ。
と覚悟を決めながらも、それでも、このまま長く生きていけるかもしれない、
父の方が、突然いなくなる事もあるかもしれないなどと
希望を持とうとしたりしていた。





その頃は、まだ「生きる方が辛い」と思うような
身体の辛さを感じていなかったからだろう。

毎日、ベッドであれこれ考えてしまう日々の連続。
頭が変になりそうになると
私や弟に電話をして落ち着くという日々だった。

母が「自分の結婚が間違っていたんじゃないか」と
思ったのは、病気と戦う母に対して
父が、全く優しさを見せないどころか、出ていけと
怒鳴った事が原因だろう。

最初の手術後、退院して、抗がん剤を飲みながら病と闘っている時、
本来なら、ヘルパーさんを頼んだり、
近くにいる家族が手伝ったりするのが当然だ。
私が何を言っても、誰も動かなかった。
できるんだからやらせればいいと言う父と弟。
私が帰省している間は、母は一切動かず、
私に全て家事を任せた。

私が、家に帰った後が心配になり
弟に話すと、「自分でやるでしょ。やらせればいい」
と冷たく返された。
母には、無理せず、皆を使う様に言ったが
母も、まさかここまで冷たくされるとは思っていなかった様だ。

だるい時は、無理せず、息子さんやご主人に甘えて下さいよと
医師かからも言われていたし、弟も医師から言われていた。

「きつい、だるいと言っても、誰も助けてくれなかった」
と、母が後から私に言った。
コロナでもあり、帰って助けられない私が、
無理して帰省することを拒否していた。

ある意味、母の自業自得な面もあるし、本人もそれに気が付き、
後悔していた。
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料理をしようにも、自分は食欲がなく
台所に長く立っていられないので、
味噌汁を作れない日があったそうだ。

でも、父に文句を言われたくないから
インスタントで誤魔化していたらしい。

私が作った味噌汁を飲んで父が言った。
「あいつは、手抜きして味噌汁も作らなくなった」
と、もう手遅れ状態になっていた当時の母のことを愚痴った。

普通なら、再発がわかり、入院した時点で、
「あの時は、実はきつかったんだな。
申し訳なかったな、」
と気が付きそうなものだ。
私は「あの時はすでに再発していて、どんなにきつかったか。
味噌汁なんて作れる状態じゃなかったのよ!」
と父に言い返した。
流石に、その時の父は黙ってしまった。

弟ならそんな事は言わない。
父の機嫌が悪くなると面倒だから、
ふーん、そうだね、ですませる。

弟夫婦も父も、結局最後まで母を助けず、自分等に食事を作らせ、
片付けも全部やらせた。
お客様で座っていた。
実は、あの時の母は、もうあと2週間持たないかもと言われる状態だった。
片付け後、具合が悪くなっても
しばらくは弟も父も知らん顔していた。
最初の腸閉塞の時と同じ。

深夜、2度目の電話で、母がどうしても具合が良くならないと
弟に病院行きを頼み込んで元日に入院。そのままになってしまった。

弟は、車を出し、付き添いをしているから
誰もいないよりは、長男として
かなり心強い存在であったと思う。
が、本当の優しさが無いので、拒否されるのが怖くて母は気を使っていたのだろう。

母は、結婚生活は、
我慢の連続で、新婚当時は父の実家に虐められたり、
きつい労働をさせられたりしたという。

でも、「それが妻の務め、夫がわかってくれる。いつか報われるはず」と信じて頑張ったと言う。
「母親から、そう言われていたのよ。妻とはこうあるべきと。
でも、今思えばそれは違ったわ。尽くす価値のある相手かどうかでかわるのよ」

「我慢すれば報われるなんて嘘よ。最後まで父にとって私は、ただの家政婦。病気で家事ができないなら用無しってこと。迷惑だから早くいなくなればいいと思っている。」
と、父の事を愚痴った。
「まさか、こんな人とは思わなかった」
「最期の最期まで、こんなに冷たくされるなんて」

私は、父は内心、しまった、酷い事を言ってしまった。
と後悔していると信じていた。母にもそう言って慰めた。
昔の頑固夫だから、素直に謝れないし、メンツにこだわるのよ。
本心は、お母さんの事を心配しているし、
存在価値を嫌と言うほど味わっているよ。
と、本当にそう思って母と話した。

母も、そうだねと落ち着いた。
が、その会話の間に
「お父さんと結婚したのは、私の希望じゃなかったのよ。お父さんがあまりに熱心に言いよってきて
その熱心さに負けたのと、周りの人が皆、勧めてくれたから決めたのよ」
と聞いて驚いた。

                    続く