亡くなる前日、ブログを書いていたのだが、
あまりに急なことだったので、そのままだった。
今日載せようと思う。

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16日の朝、弟から電話がきて
「病院から今日早めに来てくださいと連絡があった。
面会は2人までとなっているけど、ご家族は会っておいた方が良いですよと言われたから
父と3人で行こう」
という事になり、ばたばたと準備し、3人で向かった。

母の部屋に通されると、ショックを受けた。
え?つい3日前はこうじゃなかったのに。
黄疸がでて、苦しそうに呼吸をしながら
母は寝ていた。
苦しみに耐えて寝ていなかったせいか
熟睡していた。
麻薬を入れていると聞いたので
薬の影響かと思ったら、そうではなく
普通の睡眠だそう。

眠れるなら良かった、と思ったが
その姿は、やつれ、もう2度と話はできないような気がした。

こんな状態で、昨日の夕方私に電話をかけてくれたのか。
信じられない。最後に私に。

医師から詳しい説明を受けた。

「まだ、意識はしっかりしているから
目が覚めたら今のうちにお話されてください。

腫瘍が大きくなり、十二指腸を塞ぎ、
胆汁の行き場が無くなり、肝臓から血液へ逆流し
肝臓も腎臓もこの2日で一気に悪化しました。
黄疸がでて、相当のだるさがあったと思います。
それによってカリウム値が悪化。
あと1週間か、ひょっとするとカリウム値のせいで
心臓が止まることもあります。
危篤状態に入っています。」と。

母の言った通りだった。
やはり、母の感覚が正しいのだ。
自分の事は自分でわかる、その通りだ。

「明日か明後日には危篤の連絡が行くと思う。
準備しときなさい」と
そこまで母は自分で連絡してきた。
何て人なんだ。母らしいなあ。

「家の事は何の心配も無い。安心している。
腫瘍の場所が悪かった、仕方がない、あなたが帰ってくれて
本当に良かった。心配事が全部解決した。」
「電話で沢山話もできて満足している」
と何回も電話で言っていた母。

医師の話を聞いた後、
部屋に戻り、声をかけると
パッと目を覚ました母。

手をぎゅっと3人順番に握りしめ、
1人事の様に弱い声で、話し始めた。
「仕方ないの。場所が悪いの、もういいの。
何の心配もしてないの。」
と泣きながら、言っている。

私の姿が見えず、探していて
ここにいるよと言うと、安心したように
手を握って来た。
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翌日から、毎日面会ができて
1人なら泊まれることになった。
まずは、明日は私から。

毎日付き添いたいけど、弟と交代でやる。

緩和ケア病棟は、心電図モニターは使わない。

なので息を引き取っても気が付かないかもしれない。

常に緊張する。

一晩中、母と一緒に過ごせる。
それだけで嬉しい。

コロナで、面会ができず、寂しかった事だろう。
本当に可哀想な2か月だった。

旅立ちの時、退院時に着せたいお気に入りの服があれば
持ってきてくださいと言われた。

母が転院する時
ブラウスを探していて
とても華やかな綺麗なブラウスを見つけた。

母に、このブラウスを着て、いつか家にまた帰ろうねと
話したら、「そんな日がいつくるかわからないけど
一応それを用意しといて」
と答えが返って来たことを思い出した。

そのブラウスを明日持っていく。

きっと母に似会うと思う。
母が着る最後の服を、私が選んだ幸せ。
こういう事は弟にはさっぱりわからない。

最近の母は自分と私を重ねていた。