りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

2021年03月


今こそ母に居てほしい時は無い。

生きていれば、今こそ母だけが私の味方だった。
母と私の立場が一致し、弟の本性もわかってしまった。

弟は、何かにつけて私さえ我慢すればいいみたいな事を言ってくる。

口では、父が嫌いだの、どうのと言ってくる。
実際、食事の世話や家事もいっさいしてこなかったが
それをしなくていい理由もできたし
私と同じ気持ちだの、文句言ってやるだの言いながら
現実は、そうではなく
今、何かと父に媚びている様だ。
私に言う事とは正反対の事をしている。

奥さんにも媚び、父にも媚び、
母の年金は自分の生活費にあてただけでなく
多額の貯金まで盗ろうとした。

たまに、おかずを一品、差し入れするたびに
母から1万円、取っていたと母から聞いた。

「金もらえないなら、おかず作ってやらない」と言った。それが弟の本質。

嫁さんと同類だった。
母はそれを知り、自分の育て方が間違っていた、
信じていたのに裏切られたと悲しみ、
そんな風に自分がさせてしまったと後悔し、
私だけに電話で本心を語るようになっていた。

お弟には叱ったようだが、本人には通じていない。
へらへらしていた。
そんな弟が、未だに母が亡くなって悲しいとか
写真も見れないとか、ぐずぐず言いながら
父に媚びをうっているのが納得できない。


母の遺言も、父に言うなと言う。
結局、母が可哀想といいながら
母の希望は無視している。

何が悲しいのか、母のお金を使えなくなったからか。
ずっと母を利用しようとしていたからか。

私が父に差別された事も
同意しているふりして
結局は色々、理由を探し、そういうことだからと私に我慢させようとする。
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いじめやDVの被害者に
他人事で「あなたの考え過ぎじゃないの」とか
「理由があるから仕方がない」とか、「あなたさえ我慢すればうまくいく」とか
「そんな風にいつまでも抵抗していたら、周りが迷惑する」とか
被害者を黙らせ、加害者を増長させ、
益々、被害を広げる。

弟も加害者のようなものだ。

何かあると
「仲良くしないと母が悲しむよ」
と母をだす。

そんな事は無い。
母は、私に言った。

父と弟と戦ってねと。

あの2人は似ている。良くないと。

弟はいざ、自分がやりたくないことがあったら
その時だけ、私に味方のふりをし
利用したいのだろう。

父が残り、母が先に逝くなんて最悪だ。

世の中、理不尽だ。

自己中心で我儘な奴が良い思いをし、真面目に必死で生きている人が我慢ばかりさせられ
病気になり、寿命が縮まるなんておかしいだろう。

コロナ禍において、一部の政治家や官僚のやることをみていると
同じことを思う。


コロナ禍、そして母が入院してから
家族以外とは全く連絡をとっていない。
友人から連絡が来ても
何だかんだで会わずじまい。

このままだと友人がいなくなる。
遠方にはいるけれど、今住んでいる土地には
ほとんどいない。

貴重な友人にもご無沙汰したまま。
付き合いの悪い人だと思われていることだろう。

それとも、母の病気を知っているので
遠慮してくれているのかもしれない。

そろそろ、近況を伝えないとと思いながら
まだ無理かなあ。

昨日は、夢に母がでてきた。
母の日記や、葬儀の動画の編集などをしたからだろう。

特に母がメッセージを送ってきたとは思っていない。

ただ、夢の中の母が綺麗で若返っていたのは救われた。

「どうして私はこんなことになったのかなあ」
と言っていた。

電話で何度もそういう会話はしたので
同じ様に答えたが、夢の中の母は
淡々としていた。

今回、母の事については
誰もが意外でまさかという感覚を持った。

私もそうだ。

年齢的には、長寿で仕方がないと言えるのだが
実質の母は、2年前までは健康で、体力作りに努力し
膝の手術も乗り越え、
若返っていた。

不老不死のイメージがあった。

おそらく100才まで生きて、老衰で天寿を全うするだろうと
思われるようなイメージがあった。

本人が一番そう思っていた。
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父の方が、元気そうに見えて
案外急に逝きそうだと思っていた。

母が最期まで悔しがったのは、それが覆されたからだろう。

長く寝たきりの伯母の心配をしていた母の方が先にいったので
しかも元旦に入院してから2か月半であっという間に。

親族も、信じられない風で、茫然としている。

運命に逆らった様な、何かイレギュラーなすっきりしない感じだ。

年齢だけで、手術は無理と判断されたが
母だったら、乗り越えたかもしれない。
と今更ながら思ったりする。

本当はまだ生きられたかもしれないし
あんなに苦しませなくても
他に方法があったのではとか
色々考えてしまう。

そう言っていつまでも、こだわるのは良くないと聞く。

父が仏壇を買ったらしい。
私と弟に選ぶように母から頼まれていて
素敵な家具調のものを選んでいたが
私を排除した父は、独断で古臭いいかにもという感じの
物を買ったそうだ。

物覚えも悪くなり、性格も悪いところが強くでてきて
何もかも自分が好きな様にしてやると
やたら動き回っているそうだ。

母が一番心配していた流れになっているのが気になる。

娘を排除し、結局息子さえいればいいというのがあからさまだ。
息子は便利屋なのだ。そして男だから。

父の今の顔は見たくない。
もう別人だ。


 


母が再入院してから
亡くなる3日前まで、母から電話がきていた。

ずーっと母の精神と肉体の変化を聞きながら
なるべく心に添う様に、受け止める様にしてきた。

かと言って、弟の様に
「もうどうせ先はないんだから」という意識をあからさまに出すようなことはしない。

医師の話より、母の自覚する事だけを信じ、
母が「まだまだ生きるかも」と言うと
きっとそうなるよと心から思うようにした。


だから弟と話すと母は不安になる事が多く
後から私に「こんな事を言われたけど、どういう事だろうか?」
「私はもう長くないの?あの子が何か隠している?」
と私に聞いて来た。

弟は、医師のいう事しか信じず、
母自身は生きようと頑張っている時に
「何も知らずに、可哀想に」と言うことばかり言っていた。

しかも、悲しいと言いながら
お金を使い込んでいた。どうせもういなくなるのだからと。

お前のその、可哀想、悲しいという気持ちは何なのだ?
と今でも思う。

母の気持ちより自分の気持ちが全てで
常に自分が可哀想なのだろう。

母は自分の心の内側を私に話し、
書いた日記を私に託した。

人に読まれる事を意識しているので
気を使って書いている。

本音、愚痴は書いていない。
私にだけ「ノートには書いていないけど」と
言いながら電話で愚痴っていた。

自分の結婚は失敗だったかも、とか
苦労は報われなかったとか
大事にした息子に最後に裏切られたとか
そういう悪い話はいっさい書いていない。

というより、そういう事を考え始めた頃には
かなり弱っていて、文を書く気力が無くなっていた。
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どうしても訴えたいことは
2度、大きな字で書いてあった。
自分のお骨のこと。
昨日書いたこと。


日記は、2度の抗がん剤治療が終わるまで、書いてあった。

次第に字が乱れ、読むのも苦労する。
最後の方は、日付も間違っており
書くのがやっとなのがわかる。

日記と電話の違いに驚く。

電話では、緩和ケアにうつってから
母は急に頭がしっかりしてきて、聡明になっていった、

身体は死に近づいていったのに
魂は毒がとれ、洗練されて健康になっていったのだろうか。
声がどんどん若く元気になっていった。

本人は「そんな事は無いよ。だるくてだるくて」と自覚はなさそうだった。

母は、弟とも毎日電話していたが、弟はそういうことは
全く無関心というか、鈍感だった。

母の最後の言葉すら聞いていなかったのだから。

いったいどこを見て来たのか。母の何を聞いて来たのか。

母の日記をパソコンで書き起こし、わかりやすくした。

それを弟に送信すると
「読みたくない。辛すぎて」と言う。

母が父と弟に是非、伝えたいと書いたんだから
読んでほしいと伝えたが、
母の遺志は、弟も父も知りたくないという。

何かずれている。

ずれている2人が、仕切っている。
私は、父に排除された。
母が一番嫌っていたことをさっそくしている父。

私だけが母と一体化して
男2人と戦うなんて。

我慢する人が寿命が短く、苦労し、
我儘で自己中心な人が生き残り
成功する様な世の中は…理不尽なものだ。
この世は修行の為にあるから?

弟は話せば何とかなるかもしれないが
母が可哀想だとか、辛いというのは
それは、自分のことしか考えてないからだよと言いたくなる。

毎日電話で話した訳だから
それに沿った内容の日記であり、
私は、その場で母に寄り添い、気持ちを受け止め
母が落ち着いていたのを記憶している。
だから辛いどころか、物足りないほど。

日記を読んで、唯一泣いたのは
私の子ども達に対して
「幸せな思い出をありがとう」とお礼が書いてあったところだった。


母が元気だったころから旅立つまで

人はこうやって最期を迎えるのだなと
いつか自分にも必ず訪れる最後について
母に学ばせて貰った気がする。




コロナ禍でもあり、家族葬にしたのだが
会員で積み立て金があったにもかかわらず、
金額の設定が異常に高くなっており
詐欺だと思った。
価格設定が明らかにおかしかった。
会員だから絶対にそこを使わないといけないという
弱味に付け込んでいる気がした。

普段から、葬儀屋の比較はしておいた方がいいと思う。

会員になった時の説明は大嘘だった。

亡くなったら、時間がなくバタバタするので
普段からどこの葬儀屋で、どんな内容にするかを
だいたい決めて、金額を調べておくといいと思う。

元気な時に。
入院中は、そういうことは考えたくないもので
なかなか準備ができないものだ。

お布施も必要で、次々と追加のお金が必要となる。

私は、夫と私の時は
無宗教で、お経もいらない、直葬でいいと
子ども達に言っている。

夫と縁を切っても、
葬儀は子どもたちがやらざるをえないのだろうか。

本当に迷惑な事で、遠方にいるから
そこでの滞在費や、部屋の片づけ、お世話になった人への挨拶や
もしかしたら借金があったり、仕事のことも全くわからない、
子どもたちも仕事があるし、そんな後始末をする時間も無いだろう。
交通費、ホテル代などお金もかかる。

家族への責任は何も追わなかった男に
そこまでしてやらないといけないのか?と正直思う。
妻子に迷惑をかけるのも夫の楽しみなのだろう。

そんな事を考えて居ると
そろそろ縁を切った方がいいのかなと考えて居る。
やり方を間違えると、相手は何をするかわからないので、
タイミングが大事だ。
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母の事は一切、話していない。

話したとしても、悲し気に演技をするだろうが、内心夫がにやっとするのがわかる。
自分の弱味を握る存在がいなくなるから。

母も自分の事は夫に連絡してほしくないと言っていた。

母が亡くなる時、手をにぎりながら
「ごめんね、ごめんね」と、ろくでもない夫と結婚したことを
激しく後悔し、母に謝った。
何故かあの時、その思いが急に強くでてきたのだった。

それにしても、帰宅してから、毎日異常な睡魔が襲う。
いかに実家でのストレスが溜まっていたのか、
母が楽になってくれて、安堵したこともある。

身体の奥から、疲労感がどっと出ている。


私はつくづく電話が嫌いなんだと思う。

母のことで親族から携帯に着信がきても
話したくなくて、無視している。
弟が勝手に電話番号を教えていた。
断われなかったのだろう。

電話が嫌いというより、相手を選ぶのだ。
入院してから、母とは毎日電話でよく話した。
会えなかったのに、電話をしていたから
毎日会っていた様な気がする。
電話をしていた感覚ではなく
母の魂と向かい合っていたような感覚だった。

今、入院中に母が書いていた日記を
パソコンで書き起こしている。
日記は途中から力尽き、書けなくなっている。
短い期間だが、色々母の辛い気持ちが書いてあった。

これは、私がノートを送り、書く事を勧めたもの。
もし、そうしてなければ、何も残っていなかったと思う。

母に、心に望むこと、口では言えない事を
ノートに書いて吐き出してみたらと勧めた。
退屈で苦痛な気分が少しでも紛れたらと。

亡くなった後に家族に読まれる事を意識してか、
「毎日書いているよ。落書きよ」と笑って言っていた。

自分のお骨の行き場を、一番心配していた。
父のこと、母の望む場所に納骨する気が無い。

母は、遠い僻地の父の実家の墓に連れて行かないで、と生前から言っていた。
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私も弟も、実家の近くに納骨して、母の希望をかなえようと思っている。
父が先なら、簡単だったが、
父が残ったので、不便な誰も行かない山奥の父の実家の墓に
母のお骨も自分のも入れて当然と言っている。

自分の妻子より、破壊寸前の空き家の実家に執着し、
誰も参りにこない山の中の墓に全員入るべきだと決めている。

私たちが墓参りにいくには大変な場所。
先祖に執着せず、頻繁にお墓参りのできる近い場所に
納骨しようと言うと、そんなのは墓じゃないと言い出す。

母が可哀想だ。父が亡くなった後で
移動すれば良いのだが、とても面倒。

母の日記には、何度も、それについて書いてある。
父が亡くなるまで、納骨しないでほしいみたいなこと。

私は母に約束している。絶対に母の希望を実現すると。



 に

やっと苦しみから解放され、自宅に帰って来た母。

さあ、これからやる事がある。
来客の応対、書類の諸手続き、家の片づけ、父のこれから。

父が心配なので、もう少しいて手伝おうと思っていた。
葬儀が終わり、母の祭壇が出来たその日の夜だった。

父が、いきなり「帰れ」と言い出した。
「え?これからまだやる事があるでしょう。まだ残るよ」と言うと
「行きたい所(僻地の空き家の父の実家)があるんだ。お前がいると気になって行けない。」
「ずっと邪魔で迷惑だった。自分の食事位作れる。わしは下宿人じゃないぞ」
と言い出した。

普通なら、「奥さんに先立たれたショックで、認知症が急に悪化して
おかしな事を言いだした。被害妄想がでてきた」
と思うところ。

確かに、歳相応の認知症もあるし、脳が老化していることは確か。

だが、父は、元来こういう人なのだ。
いつも温厚なふりをしているが、若い時から差別主義者。
それも、非人間的なレベル。

母が今まで愚痴っていたことはこれ。

ついこの前も、病気で弱っている母に対して
暴言吐いて、寒い中、追い出そうとした。

典型的なDV野郎だ。

私の差別的な育て方を見ても、わかる。
長男さえいればいいみたいな、女は奴隷みたいな。

母は、その影響で、父に合わせて子育てして来た。
が、亡くなる前には、自分と私を重ね、
父の異常さ、DV野郎と結婚したことの後悔、子どもを平等に育てなかったことの後悔。

全て、冷静に振り返り、最期は私とあなたは同じだ。と言った。
父と弟は似ている。と嘆いていた。

私しか信用できないと言いだした。

母は、「私がいなくなったら父は喜ぶわよ。」と悲しんでいた。
まさか、そんなことはないよと慰めていたし、父の様子はそこまで酷くなかったので
いざとなれば、父は母の価値がわかり、孤独に泣くだろうと思った。


ところが、葬儀がすんだその日に
「せっかく1人になれたんだ、邪魔だから帰れ」ときた。

へ?心配して損したわ。
それならどうぞ、ご勝手にと
私はとっとと帰った。

私が父の世話をするのを、喜んでいたふりをしていたのか。
今更迷惑だと?
葬儀までは必要だったが、もう用は無いと?勝手なものだ。
そう言えば、母も「病気で動けない女は不要だ。でていけ」
みたいな扱いを受けていたなあ。

そうか、母の代わりに私がDV受けた訳だ。

母が亡くなっても、変わらない最低の父。
しかも葬儀の日だぞ。

ありえない。許さない。母の事なんか何も考えてない。

お礼を言われることはあっても、迷惑だなんて言われる筋合いはない。
娘にいうことばか。あ、娘じゃないんだ。息子さえいればいいのだ。
これまでは、母には冷たくても、私には優しかった。
母がいなくなり、
次のターゲットが娘か。ありえない。

この事は、弟も激怒し、父に怒鳴り込もうとしたが
私が止めた。

弟の前では、いい格好し、嘘を言うに決まっている。
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バタバタと荷造りをした。
当分、帰省しないかもと思ったので
母の形見に欲しいものは持ち帰った。

母が「こんな所にいたくない。私もついていく」と言っている気がした。
一緒に行こうと声をかけて、連れて帰った。(と思っている)

母が入院した時、思った事を書いたらと私がノートを送った。
それに、母は自分の気持ちを書いていた。

緩和ケアに移ってからは、書けなくなっていたが、
そのノートについて、私に、私の遺志が書いてあるから
よろしくねと言われていた。

そのノートも持ち帰った。

帰宅すると、母がついて来たと感じた。
猫に好かれていて、猫がよってくる人だったが
普段めったに来ないのに
猫がやたらうちの庭にきて、ニャーニャー鳴いていた。

夜は、私の寝室で、カタッ、ビシッと音がし、遠くで母のため息が聞こえた。
(と思っている)
その夜、子どもは母の夢を見て
母からのメッセージを聞いたと言う。
その言葉がまさにドンピシャ、母が一番気にしていたことだった。

偶然だろうが、帰宅した日はとにかく母の気配を感じた。

あの日は、傷ついた私を心配して
家まで送ってくれ、落ち着いたのを見て
再び父のもとへ帰ったと思った。

昨日は、母の近所の仲良しさんが訪問したらしいし
実家で、母もその様子を見ていた事だろう。

母が病院に居た時は可哀想で仕方がなかった。
今は、終わったという安堵感で、熟睡する毎日。

気になっていた親族に、手紙を書いたりして
どうにか、私の精神状態は落ち着いた。

父には自分の気持ちをぶつけた手紙を書いて、
もうこのままお別れになってもいいと
どこか、覚悟を決めている。

暴言を吐く時の父の顔は鬼のようで思い出すのも嫌だ。
もう会いたくない。

突然私が帰ったので、弟の方が参っている。

私がいるだけで心強かったらしく
父の相手を1人でするのが苦痛らしい。
大切にされても迷惑だという。

奥さんとは会話も無く(嫁さんは、葬儀も何もいっさい動かず
まるで他人事のようだった)
夫婦の会話が無いのがわかった。
弟も孤独なのだ。

私は、子ども達が見方になってくれ
ワイワイと話し相手になってくれ
心強かった。私が一番幸せだなあ。
実家では、私が一番貧乏で、最低の夫がいるのに
母の言う通りだった。
私が一番幸せに見えるって。






母を自分が看取ったことが
ずっと心に残り、不思議な感覚が残っている。

亡くなる時の母と二人きりの時間。
夜だったので、薄明かりの中、
映画のワンシーンの様だった。
厳粛であり、温かく清々しい雰囲気だった。

それまで、何度も電話で話していくにつれ
母は、どんどん頭が冴えてきて、聡明になり、
とても死を待つ人とは思えなかった。
いつまでも、そばにいてほしい人になっていった。

 だんだん、霊的に高いところに上っていたというか
言葉はうまく使えないが
仏さまに近づいていく感じというか。

人は、自分の死を覚悟すると
俗世間から脱して、高いところに昇るのだろうか。

最後に冷静に私たちを見て、
言いたい事を言い尽くして旅立った。

あの母は、理想の母だった。

最後の時を私と過ごし、見送らせてくれたのは
母が私を選んでくれたと思いたいし、思っている。
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それにしても、急だった。

母が再入院してから、亡くなるまで、
次第に弱り、泣き、絶望し、
時には希望を持ち、苦しみに悶え、
最後に諦めるまで、残酷で可哀想な2か月半だった。

亡くなる3日前の最後の電話は、私にかけてきた。

「あまりの苦しさに、医師に早く楽にしてくれと頼んだ」と言っていた。

その後、麻薬を投与された。
電話の翌日に最後の面会をした。
母の家族への最後の言葉は「ありがとう」だった。
その言葉はなんと私しか聞いていない。

父も弟も、知らなかった。というか聞いていなかった。

その日以降、意識は無かったと思う。
医師に聞いたのだが
意識が無くなる前に母はお世話になった医師、看護師さん達に
「ありがとう、お世話になりました。」とお礼を言ったという。

「まだ、早いですよと言ったのですが、
ご自分で、今日亡くなることをわかっておられたんですね。」
と医師に言われ、きっちりしたがる母らしい終わり方だな、流石だなと思った。

亡くなる時、母は私がそばにいるとわかっていたことだろう。
上の方から、私と旅立つ自分の姿を見ていたのかもしれない。

父の気持ちはよくわからない。

悲しいのは当然だろう。でも、血縁を優先する差別主義者だ。

端から見れば
「年老いた旦那さんが1人残され、これからが心配」
という可哀想な老人に見える。
私もそう思った。

父は、平気なふりして、実は喪失感でいっぱいではないかと。
母は「あの人は、私がいなくなっても平気。1人で自由にできると喜ぶかも。」
と何度も言っていた。
母がどうしてそんな風に思うのか、最初は不思議だった。

見た目では、父の姿は憐れに見える。
できるだけ近くにいて
食事の世話をして、寂しくない様にしなくちゃと思っていた。



亡くなる前日、ブログを書いていたのだが、
あまりに急なことだったので、そのままだった。
今日載せようと思う。

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16日の朝、弟から電話がきて
「病院から今日早めに来てくださいと連絡があった。
面会は2人までとなっているけど、ご家族は会っておいた方が良いですよと言われたから
父と3人で行こう」
という事になり、ばたばたと準備し、3人で向かった。

母の部屋に通されると、ショックを受けた。
え?つい3日前はこうじゃなかったのに。
黄疸がでて、苦しそうに呼吸をしながら
母は寝ていた。
苦しみに耐えて寝ていなかったせいか
熟睡していた。
麻薬を入れていると聞いたので
薬の影響かと思ったら、そうではなく
普通の睡眠だそう。

眠れるなら良かった、と思ったが
その姿は、やつれ、もう2度と話はできないような気がした。

こんな状態で、昨日の夕方私に電話をかけてくれたのか。
信じられない。最後に私に。

医師から詳しい説明を受けた。

「まだ、意識はしっかりしているから
目が覚めたら今のうちにお話されてください。

腫瘍が大きくなり、十二指腸を塞ぎ、
胆汁の行き場が無くなり、肝臓から血液へ逆流し
肝臓も腎臓もこの2日で一気に悪化しました。
黄疸がでて、相当のだるさがあったと思います。
それによってカリウム値が悪化。
あと1週間か、ひょっとするとカリウム値のせいで
心臓が止まることもあります。
危篤状態に入っています。」と。

母の言った通りだった。
やはり、母の感覚が正しいのだ。
自分の事は自分でわかる、その通りだ。

「明日か明後日には危篤の連絡が行くと思う。
準備しときなさい」と
そこまで母は自分で連絡してきた。
何て人なんだ。母らしいなあ。

「家の事は何の心配も無い。安心している。
腫瘍の場所が悪かった、仕方がない、あなたが帰ってくれて
本当に良かった。心配事が全部解決した。」
「電話で沢山話もできて満足している」
と何回も電話で言っていた母。

医師の話を聞いた後、
部屋に戻り、声をかけると
パッと目を覚ました母。

手をぎゅっと3人順番に握りしめ、
1人事の様に弱い声で、話し始めた。
「仕方ないの。場所が悪いの、もういいの。
何の心配もしてないの。」
と泣きながら、言っている。

私の姿が見えず、探していて
ここにいるよと言うと、安心したように
手を握って来た。
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翌日から、毎日面会ができて
1人なら泊まれることになった。
まずは、明日は私から。

毎日付き添いたいけど、弟と交代でやる。

緩和ケア病棟は、心電図モニターは使わない。

なので息を引き取っても気が付かないかもしれない。

常に緊張する。

一晩中、母と一緒に過ごせる。
それだけで嬉しい。

コロナで、面会ができず、寂しかった事だろう。
本当に可哀想な2か月だった。

旅立ちの時、退院時に着せたいお気に入りの服があれば
持ってきてくださいと言われた。

母が転院する時
ブラウスを探していて
とても華やかな綺麗なブラウスを見つけた。

母に、このブラウスを着て、いつか家にまた帰ろうねと
話したら、「そんな日がいつくるかわからないけど
一応それを用意しといて」
と答えが返って来たことを思い出した。

そのブラウスを明日持っていく。

きっと母に似会うと思う。
母が着る最後の服を、私が選んだ幸せ。
こういう事は弟にはさっぱりわからない。

最近の母は自分と私を重ねていた。


 


 母が亡くなった。
3月18日の早朝。

泊まりを許されたので
私が泊まった最初の日に。

部屋には母と私の2人だけ。

薄暗いライトの灯りの下で
母の手を握り、話しかけながら
私1人で静かに息を引き取るのを見届けた。

それがとても幸せだった。
私が看取りたかったし、母と二人きりで
最期を過ごせた事実は
特別な記憶となって残った。
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まるで我が子を見守る母の気持ちになった。
母は自分の母親が夢に出てくると言った。
人は母から生れ、また母の胎内に戻るんだなと感じた。
最後の母は、新生児のようだった。
可愛くて愛おしくなった。

そして、心の中から
母への懺悔の気持ちが溢れて来た。
息を引き取る寸前に
手をにぎって
「親不幸な娘でごめんね。」と泣きながら謝った。

それまで面会の時に手にさわると
ぎゅっと握り返してくれた母の手は
もう反応は無かった。

看取る相手を、母が選んでくれたような気がした。

今はこれだけ、とりあえず書くことに。

色んな事があり、書きたいことが多すぎて
また、後程ゆっくり書きたいと思う。




15日の夕方6時過ぎだった。
声は枯れて、力が無く、
ろれつも回らず、よく聞き取れないのだが
母は何とか頑張って話そうとする。

「足はまだ痛い?あれからどうだった?」と聞くのが精一杯の私。

「足も痛いけど、もう靴はいらないわ。もう私はダメだと思う」
と言う。
「昨夜、苦しくて一晩中眠れず、唸っていて、気が付いたら
病室がナースステーションの前に移動されていたの。
もうどこが痛いとかそんなもんじゃない。
ああ、私は明日までもつかなあ、明後日までかなあと
自分で感じるのよ。
お医者さんに、もういっそ、楽にしてくださいと頼んだけど、
鎮痛剤を変えます、明日には楽になりますよ。そしたら今より
元気がでるからと言うけど、とてもそんな気がしない。
近いうちに、病院から危篤の電話が入ると思うわ。
待機しとくように、あの子(弟)にも伝えといてね。」

と、息切れしながら、必死で訴えて来た。

「電話をする力も無かったけど、今ならできそうだと思ってかけたの。
またできるといいけど、わからない。薬で意識が無くなったらそのままだし。
もうそろそろ切るね。」
と言って電話はきれた。

「電話をもらえて良かった。無理しないでゆっくりして。家の事は何も心配いらないから」
と言うのが精一杯で、言葉に詰まり、涙が出て来た。

医師よりも本人の感覚を信じようと思ったが
今回はどうなのだろう。
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すぐに弟に連絡しようと思ったその時
弟から電話がきて「今、病院から連絡がきた」と言う。
え?電話切った直後に何かあった?
とどきっとした。

内容は母から聞いた様子と同じで
「鎮痛剤の影響で、嘔吐などでベッドが汚れたので
急遽、部屋を変えました。明日から鎮痛剤を強くします。
病状について、説明しますので明日か明後日、来てください。」
という内容だったそうだ。

 これから、説明をするという事なら
今日明日に迫っているということではなさそうだ。

弟に、母から電話があった事を伝えたが、
医師の話の感じでは
まだ大丈夫だと思うと言っていた。

母はそれだけ、苦しいという事だ。
「いっそのこと、このまま逝ってもいいです。
早く楽にしてください。もういやです」
と何度か医師に訴えている。

腫瘍ができた場所が悪かったし
リンパ腫の種類が、良くないタイプだったことも
不幸だった。


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