りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

2018年07月

自分は、独身の時、生きる事に執着していなかったと思う。

「いつ事故や病気で命が無くなっても、運命だし、別に思い残す事はない」と思っていた。

自分の未来が想像できず、もしかしたら自分は長生きできないのかもと薄っすらと思っていた。

それは健康だったからだろう。
健康を失って初めてわかる有り難さと言われる様に、軽いいい加減な気持ちで生きていた。

子どもができたら、責任感が重くのしかかった
「これからは、長生きしないといけない。私の身体は私だけのものじゃないんだ。子どもの為にしっかり生きなければ!」と思ったのを覚えている。


叔母のトキ子さんが言っていた。
「この世は修行よ。人は修行をする為に生まれてくるのよ。楽しいだけの人生なんてない嫌な事だらけで当たり前なのよ。」

結婚する時、お祝いの言葉として誰もが言う「幸せになってね」の言葉。

結婚相手から言われる言葉「幸せにするよ」「幸せになろう」「君となら幸せな人生が送れると思った」などなど…

「幸せに」という言葉を簡単に口にする。結婚したら毎日バラ色の生活が待っていると錯覚してしまう。

幸せって何だろう。人それぞれにハードルの高さも価値観も違うから、色んなイメージがあるだろう。
形があるものでは無い。心で感じるもの。

失った時、初めて強烈に気が付くもの。心安らかに生きられること。かなと思う。

大きな災害にあったら、それまでの価値観が変わる。

私も少しだが変わった。

今日こんなに幸せでも、不幸でも、明日はどうなるかわからない。どんなに満ち足りていても、明日は全部無くなってしまうかもしれない。
逆にどんなに未来を悲観しても、いつラッキーな事が舞い込んでくるかもしれない。


10年前の自分を振り返ると、今の自分はもっと不幸になっていると思い込んでいた。あの頃はそう思っていた。

振り返ると何とかなっている。幸せとは言わないが、想像していたよりはずっと自分の心は平穏だった。

こんな事ならもっと気楽に楽観的に過ごしていたらよかったと思う。

慎重に計画的に生活していくのは良い事だが、心配しても今どうしようもないなら、考えない方が良い。もったいない。

結果が同じなら今を楽しく生きた方が良さそうだ

順番が前後して申し訳ないが、初めての出産の時の記憶を辿っていたら、妊娠中からトラブルがあった事を思い出した。


嫌な思い出は忘れた方がいいと思うが、もうかなり前の事だし、今だからこそ話せるようになった。

私の中でもう終わった事になっているからだと思う。書き出して、自分の人生を整理していくのも良いかもしれない。


自分が初めて妊娠がわかった時、なかなかできないかもと思っていたので、驚いて感動していた。

夫に伝えた時、最初は喜んでいたが、翌日になると「まだ遊びたいだろう。困ったね」と言う。

耳を疑った。私は怒った。すると夫は慌てて「冗談、冗談」と誤魔化した。


悪阻もひどく、私は仕事はできないどころか家事もろくにできなくなった。

夫は酔っ払って帰宅する毎日で、具合悪い私を見ても、妊婦の立場を想像する力は無さそうだった。

体重が落ち、食事もあまり食べられない日々が続いた。

ある日、絞られるような腹痛がした後に、少し不正出血があった。その後、急に気分が良くなり、悪阻が消えた。

気分が良くなったから大丈夫。元気になって食欲がでてきた!」と勘違いし、溜まった家事をやろうとした。

が、よく考えると、「悪阻は妊娠しているからなるわけで、それが急に無くなるというのは妊娠の状態が止まったという事ではないか」と気が付いたのだ。

すぐに産婦人科に行くと、切迫流産で絶対安静と言われ、入院を勧められた。

ショックを受けたまま家に帰り、落ち込んだ気持ちで1人で入院準備をし、翌日の朝、重いカバンを下げて入院した。

流産しかけているのに、一人で荷物抱えてきたので、看護師さんが「付き添いの方はおられないのですか?」と驚いていた。


前日の夜、夫に入院する事を話したが、意外にあっさりとしていた。

私が留守中の生活費として、夫の給与振り込み用の預金通帳を夫に渡した。
「ここから入院費用も払うのだから無駄使いしないでね」と一言くぎをさしておいた。


入院してから3日たっても、誰も私に会いにに来なかった。
といっても、夫しかいなかったのだが、洗濯物や持ってきてほしい物などがあったので困っていた。

自分の実家には電話をして、「大丈夫だから遠くからわざわざ来なくてもいいよ」と言って置いた。

母に来てもらっても、夫の世話をさせるだけだし、1週間で退院できる見込みだったので遠くから来させる必要はないと思った。

誰も知り合いのいない土地に引っ越してきたばかりだった。唯一来るべき夫が来ないのは、流石に病院側も驚いていた。

やっと退院前に夫が来た。「何で今まで来なかったのか、してほしい事があったのに」と言うと「毎日飲みに誘われて、帰宅が深夜だったから無理だったんだよ。」と言う。

退院前日の夜、姑から私に電話がきた。

その内容はこうだ。

「流産しそうになるなんて、どうしたの?あなたは子どもを産めない体質だったの?あなたのお母さんはどんな体質なの?弱い体質の遺伝じゃないでしょうね。
あの子(夫)が心配していたわよ。入院費がかかって困るって。それとね、こうなった事をあの子のせいにしてほしくないの。だからあなたの実家には入院した事は黙っておくのよ。いいわね。息子にも連絡するなと言っといたから。」

同じ女性で母親である人の言葉とは思えなかった。


しかも悪いのは流産しやすい遺伝体質の私と母だと作り話をしてしまう。

「もう実家には連絡したから親は知っています」と言うと
「そんな事したら息子の立場が悪くなるでしょう!」と怒られた。


入院してから悪阻が戻り、流産の心配が無くなり退院した。

帰宅し、夫に預けた通帳を返してもらった。

なんと、たった1週間の夫1人の食費しか減らないはずなのに、残高は0になっていた。
余分に貯金していた分も全て使われていた。帰宅後からの生活費は無くなっていた。

ストレスだらけのスタートだった。

いつ突然の腹痛が襲って、失神するかわからないという不安の為、電車に乗る時は動悸が激しくなっていた。

昼間は幼い子どもと二人で、もし私が突然気を失ったらこの子はどうなるんだろうとか考えて居ると益々外出できなくなり、孤立感が強くなった。

ある日、昼間に腹痛がきた。一瞬不安がよぎったが、出産後、初めて訪れた生理だった。

キリキリとした痛みは、あの時の傷みと似ていたが、子宮が収縮した時の痛みだと思った。

そこで、腹痛は子宮が原因ではないかと気がついた。今思えば、なぜ最初にそれに気が付かなかったのか不思議だ。


産婦人科に行ってみた。すると内診した医師がすぐに言った。

「これは、産後の処置が悪かったようですね。産後排出されないといけなかった物が残ったままになっていたのでしょう。子宮内で感染し、その痕がケロイド状になっていますよ。」

それで、生理が復活しようとして、子宮が収縮した時に、その部分が傷みを発したという事の様だった。


あまりの傷みで、迷走神経反射をおこしたという事か。


そう言えば、産後の処置は確かにひどかった。

当時、転勤で実家は病院の少ない地方に引っ越していた。産婦人科も少なく、その為にいつも患者や妊婦さんにあふれ、一人しかいない医師は過労気味。
私の出産の時は、医師も婦長も不在で、新人看護師しかおらず、ぎりぎりまで冷え切った分娩室に放置されるという状態だった。


初めての出産は、ドタバタして酷いものだった。病院を選べないというのは何かあった時に困るものだ。

産後一か月検診で、「子宮に残留物があるから出します」と言われ、いきなり麻酔なしで処置された。出産より痛かったし、感染予防の薬もその後の生活上の注意も無く、そのまま帰された。


おそらくそれで、知らない間に傷口が感染し、自然治癒した後子宮壁がケロイドになったのだろう。
熱がでたり、痛みがでない程度だったから気がつかなかった。

本来なら、病院は、処置した時についた傷が化膿しない様に抗生物質など感染予防をし、しばらく安静にと注意をするべきだったのではないか。

付き添った母も、昔の人で自宅で産んでいる為、そういった知識はなく、実家では私を安静にさせる気は全くなかった。

私は産後は全く眠れず、休めずだった。

何の為に実家で出産したのか意味がないのではと、思うほどだった。

母は、私の身体よりも、世間体を優先。「どんなに体調が悪かろうが、産後の肥立ちが悪いなんて、みっともないから、40日経ったら、絶対に帰ってもらうからね。」

といつも言っていた。だから、フラフラしながら赤ん坊を抱いて帰宅した記憶がある。

今思えば、若い頃の私は強く自分の意志を言えない、抵抗できない人間だったのだ。今思えば、あの頃の自分が情けないし、可哀想になってくる。


診察した産婦人科の医師は「これはどうしようもない事で、昔は血の道といって、多くの女性が苦しんできた症状なんです。もし、また痛みがきたら我慢しないですぐに薬を飲みなさい。そしたら大丈夫だから。」と私の不安感を取り除く事を優先してくれた。


優しく安心させてくれ、痛み止めの薬をだしてくれ、それだけで、私はだいぶ救われた。


そして「完治させる方法はありますよ。出産する事です。また子どもを産む事により、子宮の壁は新しく生まれ変わりますからね。」

と言われた。これらの話が全て真実かどうかは確かではない。でもその時はそう言われた事で精神的に楽になり、救われたのだ。


夫に不信感があり、もう子どもなんていらないと思っていたので、二人目は無理だなと思っていたのだが、それから3年後に二人目を出産し、本当にこの症状は完全に無くなった。

2度目の時は、幸いに実家は都市部に転勤しており、出産する病院も慎重に選ぶ事ができた。


出産は病気ではないと言う人もいる。

とんでもない。一歩間違うと一生重い体調不良を抱えたり、感染して命を落としたり、大出血を起こしたり、子どもの命も母親の命も危険になる事だって、ありえるのだ。

昔の女性は、嫁という立場で何も言えず、産後の肥立ちが悪い事を恥と思われ、一生我慢を強いられてきた。

私は、自分が嫌だった事は、絶対に子どもにはしないと決めてきた。
自分が誰かのお産の世話をする時は、母親になった人の一番の味方になろうと思った。

先日、迷走神経反射の事を書いたが、私はこれまでに一度だけ気を失った事がある。


その時の事を思い出してみよう。


★第一子を出産して数か月過ぎた頃だった。

深夜熟睡していた時、突然激しい腹痛が襲って目が覚めた。

それまでに感じた事の無いほどの激痛。


腸がねじれた様な痛み。いつもならじっとすれば、次第に落ち着くのだが、どんどん痛みが強くなっていく。

とりあえずトイレに行った。お腹が張ってきて苦しい。

何もでない。苦しい!と思ったところまで覚えているが、その後の記憶が無い。

目が覚めたら、トイレの前の廊下で倒れていた。怪我もしていないから、おそらく無意識にトイレの外にでて、寝ころんだのだろうか。

失神していた間、夢を見ていた様な不思議な幻覚を見た。

ものすごい大衆が倒れている私を見てざわついているのだ。ざわざわと声がする。


意識が戻った時は、なぜここにいるのだろうと訳がわからなくなっていた。どの位、そこにいたのかも全くわからない。

寒気がしてきたので、布団に戻った。

すると再び腹痛が襲ってきた。前回ほど強くはなく、がたがた震えがきたので、おなかを温めてると収まった。

その後は何ともなかったが、痛みの原因がわからず、とりあえず近所の内科へ行った。

結果は異常なしだった。胃腸はどこも悪くないと。「腹痛がして失神したなら脳の異常ではないか」と言われ、脳外科を紹介された。

幼い子どもを夫に預け、1人で遠い脳外科まで行き、検査を受けた。

結果は異状なしだった。


ホッとはしたけれど、「あれは何だったのか、またあんな事があるなら不安で外出もできない。しかも小さい子どももいる。夫はあてにならない。どうしよう。」と不安で一杯になった。

夫はその頃から家にほとんどいなかった。私の事も他人事みたいだった。

親戚も親も誰もいない土地で、あの頃の私は孤独で、身も心もくたくただったと思う。


体重も今と比べると、10キロは少なかった。

★その前にも、疲労で寝込んだ時があった。

具合が悪かろうが、子どもの世話は私しかやる人がいないから、フラフラしながら家事と育児をしていたのだが、夜には倒れこむ状態。
帰宅した夫に「体調が悪いから協力してほしい」と頼んだ。


すると「甘えすぎだろ。毎日楽してるからだらけてるだけだ。」と言われた。


私は、翌日から食べ物を受け付けなくなり、胃腸も壊れた。

そんな時に、何も知らない私の親が、はるばる地方から遊びに来た。

私の様子を見て驚いて、夫に「どうしてここまで娘を放っといたのですか。子どももいるのに。」と聞いた。

それでも「何も言わないこいつが悪いんですよ。僕は何も知りませんでした。」と言い返し、更に私にむかって「あんたのせいで僕が誤解されるじゃないか。何でこうなるまで病院に行かなかったんだよ」と言った。

その頃の住居は、山の上のニュータウンにあり、病院に行くにも買い物に行くにも不便な土地に夫が新居を決めていたのだった。

車は無く、バスと電車を使わないとどこにも行けなかった。

「赤ちゃんを抱っこして病院に行く元気も無いのに。」と言いたかったがそんな気力も無かった。

後に、姑から手紙がきて「赤ん坊もいるのに、そんなに弱いと困ります。しっかりしなさい。息子が愚痴ってました。」と書いてあった。

失神したのは、それからしばらくしてからだった。
流石に、そこまでの事があると放っておけなかった夫は、子どもを見てくれて、やっと私は病院に行けた。


あの頃の私は、若さのせいと、家庭環境の影響もあったと思うが、我慢する方が楽で、面と向かって反論する力も自信も無かった様に思う。

当時予期不安が強くなり、外出が怖くなっていた。


叔母のトキ子さんは、結婚するまでデパートに勤めていた。

美人で明るくとても人気があったそうだ。
なので成績の良いできる社員だった。

当時、お客様だったご主人は、その中でも一番熱心にアタックしていたらしい。

「今思えばもっと条件の良い人がいたのに、この人は私でないといけない人なのだわ。と勘違いしたのが間違いだった。」
この人は私でなけりゃダメなのよって思うのはやめた方がいい。そんなのありえないから」

「どんなに相手が、そうやってすがりついてきても、騙されてはダメ。冷たく見えるようでも、ふったら案外ケロッとしてすぐ次の女性を見つけるものよ。」


と言っていた。ご主人に「あなたじゃないと駄目なんです!」とすがりつかれ、「そこまで自分を愛してくれ、必要としてくれるなんて!」と感動して結婚を承諾する事ってあるのではないかな。


叔母は、結婚してみたら、現実は全く違っていた。(どの家でも多少はそうだと思うが)

旦那さんもトキ子さんもお酒好きだが、トキ子さんは義両親の世話と自分の子どもの世話に追われ、自由はない。旦那さんは毎日の様に飲んで帰ってくる。

夫婦の時間もない。文句を言うとどなり散らされる。そこへ姑は息子をかばい、嫁を非難する。
トキ子さんは孤立していた。


「旦那さんが結婚する前に、熱心に私が必要だって言ってたのは、要するに親の面倒と家事やる人が必要だったってことだったのか。」と結婚を後悔する叔母。

いつも元気に明るくしなきゃと思い、「仕方ない。子どもがいるし、離婚なんて無理だわ。諦めよう。」と愚痴をこぼすのをやめたという。

そこへ、とんでもない事が起きる。

ある日の夜、夕飯を食べていると、見知らぬ男性数人が、どかどかといきなり家の中に入ってきた。

「さっさと貸した金返せ!」と怒鳴られる。

何の事かわからず、茫然としていると、旦那さんの兄(長男)が多額の借金をしており、返さずに逃亡していたのだ。保証人を勝手に親にしていた。

多額すぎてとても返せないと話す義親に対して、更に男らは大声で迫る。


恐い男性達は毎日の様に催促にきたそうだ。(本当にそんな事があるんだと驚いた。今と時代が違った。)

長男は行方不明で、どうしようもなく、少しずつお金を渡し、長い年月をかけて返済したのだそうだ。

義兄の借金を義親の年金と叔母の旦那さんの給料から返していった。
少しはお嫁さんである叔母に対して、申し訳ないとわびる事もなく、ご主人と義両親の態度は変わらなかった。
それどころか、借金のストレスから、舅や旦那さんまで家庭内での態度が荒れていった。

「私はこんな目にあう為に結婚したんじゃないのに。」と言いたいのを抑えて、トキ子さんは子どもを守る為に頑張っていた。


結婚前は、あんなに大人しくて、おどおどしながら「あなたが必要なんです」なんて言っていた旦那さんは、別人の様に変わり、「うるさい、文句言うなら出ていけ。代わりは誰でもいるんだぞ!」とまで言う様になっていた。

トキ子さんの身体に、最初に異変が現れたあの日の事⇒叔母の鬱病~話が全然違った結婚生活

家族でプロ野球観戦に行った日。あの時、義兄の借金返済がやっと終わったところだったのだ。

お祝いを兼ねて、皆で出かけたのだった。

球場で「ああ、良かった。もうあんな怖い思いをしなくてすむんだ。これからは、やっと心安らかに幸せになれるよね」と呟いていたそうだ。

ホッとしたその時、足が動かなくなった。

そこから病との戦いに入ってしまった。

人の身体と脳、精神の仕組みは、複雑すぎてよくわからない。だから怖い。

「愚痴を言っちゃいけないって思っていたのもよくなかった。家で言えないなら外で言えば良かったのよ。世間体を気にして外でもいい格好していたのも精神に負担をかけていたみたい。もう、私は格好つけない。言いたい事言う様にしたわ。医師からも家族に注意してもらって、旦那も私に何も言えなくなったし。」

と回復していた頃のトキ子さんは、次から次へと襲う困難を乗り越えて、すっきりした様子に見えた。その時は。




先日の鬱病になった叔母のトキ子さんの話に戻りたい。

最初の発病から、かなり元気に回復した時が何年かあって、その時に病気について色々教えて貰った事がある。

トキ子さんが、初めて鬱病と診断されたのは、37歳の時だった。

しっかりとして、いつも元気で、活発な叔母。

結婚以来、元気に家事、育児、義親との同居生活を愚痴も言わずにこなしていた。
そんなある日、家族でプロ野球観戦に出かけた。大声で声援を送り、楽しく過ごしたという。

試合が終わり、さあ、帰ろうかと全員が立ち上がった。
その時、トキ子さんは、なぜか足が動かなくなり立ち上がれなかった。「えっ?何?」と自分でも何が起きたのかわからなかった。

その日は抱えられて、何とか帰宅した。

突然の身体の異常にショックを受け、翌日病院に行き検査を受けた。が、「何も異常は無し」と言われる。

(そんなはずはない、何か異常があるはずだ。もしかしたら癌では?医師も家族も私に隠しているのかもしれない)と疑い始めた。

自分は癌が悪化していて、余命も短いのではないか)と思い込む様になる。

色んな病院に通い訴えても異常なしと言われる日々、その帰り道に癌についての本を何冊も買っては帰り、読み漁っていたという。

気にすればするほど、益々身体は重く動かなくなっており、体調が悪くなっていた。

それで「癌に違いない」と確信してしまう。

「子どもはまだ小さい、私が死んだらこの家はどうなる。私がいなければ誰も何もできない。どうしよう」と毎日悩み苦しむ日々が続いた。「私は癌なのでしょ!」と家族に聞いても、誰もが否定する。
私だけが騙されているんだ」という孤独感が襲う。

夜も眠れず、幻覚も見る様になった。

病院で、精神科を勧められ、やっと鬱病だと診断される。

癌だと思い込んでいるトキ子さんは、「病気ノイローゼ」になっていた。

癌ではないとはっきり言われ、癌の不安はとれたのだが、鬱の症状は診断まで時間がかかった為に悪化していた。


当時、今ほど心身症や鬱病などの精神疾患が世間では知られておらず、世の中の理解も少ない時代だったと思う。
私はこの時、叔母に教えてもらった事で、鬱病の深刻さを知った。

トキ子さんはこう言った。
「自分が病気になるほどのストレスを抱えていたなんて自覚は無かった

「でも、そう言えば結婚してから色んな大変な事があって、頑張りすぎてたみたい」

「そもそも、結婚した事だって、自分はあまり乗り気じゃなくて旦那さんがあまりに熱心だったから、そこまで私を好きになってくれるのなら、きっと幸せにしてくれるかなと思ってOKしたのよ。それが結婚したら、全然話が違っていた。」

と言って、それまでの結婚生活を振り返って話してくれた。

その振り返りは、治療でも使われ、医師にそれまでの自分を振り返り、話し、何がストレスだったのか、自分の抑え込んでいた本心に気が付く事も病気の回復に繋がると言う。

原因であろう問題がわかれば、医師から家族へもカウンセリングが行われたそうだ。
この話は、だいぶ前に叔母から聞いた話で、遠い記憶から書いていますので、正確さに欠けるかもしれませんご了承下さい。)







大雨による大災害…自分も過去に似たような体験も何回かあり、避難して家に何日も帰れなかった体験が(勿論夫は不在、他人事)あるので、テレビのニュース画面を見るだけで苦しくなります。お見舞い申し上げます。


これから暑くなり、どんなにかご苦労な事だろう。

帰る家があっても、そこには住めず、途方にくれる上に避難所での過酷な生活が続く。

大きな災害が、最近は多くの土地で起こっている。

救助活動、復興は、地方だけではどうにもならない。一刻も早く最大限の事をして国は助けてほしい。

今回初動が遅れていて、政府ののんびりしている感がイラついた。

水はあっという間に襲ってくる。地震も突然やってくる。

迷走神経反射の事をもっと詳しく書こうと思っていたが、もし、自分がまた倒れそうな時に地震がきたら、水害に襲われたら、と思うと、自分が助かる為にどうするかよりも、誰かに迷惑をかけてしまう事が心配でならない。迷惑をかけるどころか、人を助ける事をしたいのに。


一昨日、テレビのニュースで、記者がいまにも氾濫しそうな川の横で中継をしていた時の事だ。
警察が、立ち入り禁止のテープをはっており、その内側に入ると、今にも濁流に流されそうな恐怖を感じた。
すると、そこに若い男が二人侵入してきた。テレビカメラを意識しているのか、態度がヘラヘラしている。

そして、足を川の中につっこんで、ふざけだした。ちょっとふらつけば、間違いなくあっと言う間に流される。そんな状況の中で。

テレビを観ている人にウケるとでも思っているのか。その二人は、調子にのってきてやめようとしない。うろうろ川と道の境目を歩き周り、足をつっこんではまたうろつく。カメラに映るようにして。

記者は中継中で気がついていないが、カメラマンは見えていたはずだ。

「生中継で、人が川に流されていくのを見せるつもりなのか、そんな場面を観たくない、中継よりも、すぐに注意する方が先だろう」と思ってハラハラしていた。おそらくあの連中は、そういう人の動揺を予想して楽しんでいるのだろう。
こんな信じられない人がいる。その二人の他にも次々と入ってくる人が増えていた。
「考えが甘いよ。何かあったら、誰かに迷惑がかかるって事、思わないの?」と私は腹がたち、一人テレビの前で呟いた。

流石にアナウンサーの顔色が変わり、中継の終わりの方で「後ろの人たちに、声をかけて注意してください」と言っていた。

こういう自然を舐めた行動をする人もいるのだという事と、命がけで首までつかって老人を助ける一般人もいるという事、テレビで見ているしかない自分の無力さに悲しくなった。

東京では晴れていて暑くて、西日本でこんな災害が起こっているという事がピンときてない感じです。」と夜のニュース番組で言っていた。そうなのかと驚いた。

全ての人がそんな訳ではないはずだし、一般の人はそれでも仕方ないとしても、その陰で救援に向かう消防関係、自衛隊、などさまざまな動きがある事は確かだ。それでもまだ足りない状況。

国は、武器やお古の馬鹿高い戦闘機を買うより先に、災害対策にお金を回す方が先ではないか。

日本にいる限り、いつ自分の身に起こるかわからないのだ。地球がそういう時期に来ている。

どこかで災害が起きた時、自分の事として想像し、どう防ぐのか、対処の仕方や心構えを教訓にするだけでも違うと思う。という私も偉そうに言えない。これは自分に向けて書いた。





急にお腹が痛くなって、トイレに行って座ったらお腹が張ってきて苦しくなり、あれよあれよと言う間に気分が悪くなった事ありませんか?


お酒や炭酸飲料を飲んだ後や、便秘や下痢の時などではなかったですか?


私は、先日、久し振りにトイレで倒れそうになった。

久し振りだった。十年位は無かった気がする。十年前は、ビールを飲んだ後に急に腹痛に襲われ、トイレで倒れそうになった。最初に倒れた時は、産後だった。

今回は、ビールではないが、炭酸飲料を飲んだ後だった。
スカートのベルトをきつめに締めていたのも影響していたかと思う。

お腹が急に張ってきて、トイレに行っても何も出ず、苦しくなり、吐き気がし、手足の力が抜けていき、冷や汗がだらだらでる。
耳鳴りと目の前が暗くなる。ああ、倒れるなと思う。

酸欠だと思って、出産時に習ったラマーズ法?を必死で行う。(傷みや酸欠の時、ラマーズ法を真似ると痛みは和らぎ、脳に酸素が行く気がする。)

鼻でゆっくり息を吸い、口でゆっくり吐く。「とにかく脳に酸素を送らねば!」とそれだけ考える。


それでも気分は悪い。諦めずに呼吸をする。そばで誰かが見ていたら、何をふうふう言ってるんだろうと思っただろう。

まるで出産シーンみたいだ。

トイレで気を失うのは嫌だったので、何とかはいつくばって和室に行き、そのまま横になった.


目を閉じた。開けたらきっともっと気分が悪くなると思った。頭の中がぐちゃぐちゃになっているのがわかる。
脳の血流がグルグル回る。脳がパニックになってる。呼吸は続ける。フーフーっ。

身体がふわふわ浮いてる感覚まで襲ってきた。耳も血流が悪いのか。過呼吸になってはいけないと思い、呼吸を普通に戻してみる。

首の後ろが温かくなっている。

冷や汗が凄い。服はぐっしょりだ。お腹は落ち着いている。目はまだ閉じたまま。

ふわふわ感がとれてきた。呼吸を落ち着かせ、目をそっと開ける。

すると再び軽い腹痛。今度は大丈夫かも、トイレにいってお腹を空にしたらいいかもと思い、ゆっくりトイレに戻る。

今度は嘘みたいに普通にトイレをすませた。お腹がすっきりして、さっきの現象は嘘みたいだ。

服を着替え、横になって休んだ。暫くうとうとした後は、すっきり目が覚めた。

脳の中を滅茶苦茶に血が流れ切った感覚。

言い換えると、運動不足だった脳を一気に全力疾走させて、脳のコリがとれたみたいな感じ?

最初にトイレで倒れた時は、産後の処置が悪かったとかで、その後遺症となる子宮の痛みが原因だった。

こういう倒れそうになったり、失神する症状は、「血管迷走神経反射」だという。


産後、初めて気を失った時は、悪い病気かと思い、色んな病院に行ったが、検査のたらい回しの上、異常なしだった。結局産婦人科に行きついた。

誰も「血管迷走神経反射」という言葉は使わなかった。

最近自分で調べて、これだ!と確信した。


 家の中を整理しながらこれまで縁のあった人々の色んな出来事を思い出している。

私が知っているのは、その人の長い人生のほんの一部でしかない。

人それぞれに色んなドラマがある。

幕の引き方も人それぞれ。誰にも予想できない。だからこそ、日々生きられる。

「生きているのは当たり前」「将来は」「老後は」
自分に未来が来ると信じ、夢を描き、不安に取りつかれたりしながらも、明日がくることが当たり前に思っていた若い頃もあった。

そんな私の若い頃に縁のあった叔母の話をしたい。


東京の叔母=トキ子さんは、2年前に人生の幕を降ろした。

私が東京で独身生活を過ごしていた時期、電車で1時間ほど乗って、トキ子さん宅に何回か遊びに行っていた。

トキ子さんは美人で、綺麗好き、仕事ができて、男勝り、冗談が好きでよく人を笑わせていた。
お酒も大好きで、宴会では盛り上げ役。

当時トキ子さんは、仕事関係で知り合い結婚したご主人と小学生の男の子、義両親と暮らしていた。

そんなある日、近くまで用事で行った際、立ち寄って見ようと思った。もう半年以上会ってなかったし、突然行って驚かせようと思った。

玄関のドアを開けたら、きっと笑顔で大きな声で「ひや~!びっくりしたわ。いらっしゃい!」と言って歓迎してくれるものと思った。

いつもそうだったから。

その時は違った。
ドアを開けたら、昼間なのにパジャマを着ていて、髪はくしゃくしゃで、目に力が無いトキ子さんが立っていた。

そして「誰?」と言ってぼーっとした様子だった。

名前を言うと「あ、そうね。あなただったのね。ああ、あのね、私病気なの…」とかすれた弱々しい声で叔母が言った。


トキ子さんは鬱病になっていた。私は知らなかった。親族は皆知っていたのだが、母が私には教えていなかった。

私が同じ東京にいて付き合いがあるのに、隠したところでどうなるんだと腹がたった。私に対しての世間体らしかった。自分の妹が精神科に通う事を知られたくなかったという。???

母のそういうつまらないおかしな見栄は、娘に対してまで?その後も色々あった。


叔母の様子に驚いた私は、そのまま帰ろうと思ったが、トキさんは家に招き入れてくれた。

その日は、きつかっただろうが、無理してテーブルに座り、話をしてくれた。

決して軽い病状ではなく、自死願望が強く出ている状態だと聞いた。時々親族が泊まりがけで来て、夜は紐で手をつないで横に寝て、トキ子さんを見守っているとの事だった。


いつの間にそこまで悪化していたのか、全く何も知らなかった私は、鬱病というものの怖さも初めて知った。

快活で、明るくサパサパした叔母からは、一番縁のない病気に感じたが、むしろそういった性格の人の方が、鬱病になりやすいと聞いた。真偽はわからない。誰でも性格は関係なくという事だろう。

何も知らない私に、鬱病と診断されるまでの自分の変化を詳しく話してくれた。

ぽつりぽつりとゆっくり。

「自分の言いたい事をこの家では言えないの。良かった、私の味方になってくれる人が来てくれて。」

みたいな事も言っていた。

お姑さん、お舅さんとも同居だったので、家事は助かっていたが、同居も病気の原因かもしれないとトキ子さんが呟いた。

この伯母は、それから長い年月、良くなったり悪化したりを繰り返し、やがて認知症になって、施設に預けられた。

息子が結婚後、同居して介護をしていたのだが、長い年月の介護は大変だっただろう。

特にお嫁さんは義両親を看取るまで頑張って、立派だった。義両親の介護をする為の結婚みたいだったと言ってもおかしくない。
当然、息子夫婦には何回も離婚危機があったそうだ。

その都度、トキ子さんの息子は「親のせいで僕には幸せは来ないのか」と嘆いていたという。


子どもの時に母親が病気になって以来、我慢する事も多かったと思う。蓄積されたストレスはかなりのものだっただろう。

介護中、「もう限界です。母をそちらに送りますからそっちで看てください。兄弟姉妹で世話するべきです。母はもういりません。」
ととんでもない事を親族に言ってきた事もある。そこまで言いたくなるほどのストレスだったのだろう。

勿論、親族はそんな事は受け入れられる余裕も体力もなく、しかし、息子の気持ちは受け止めてあげ、相談にのり、結果施設に預ける事で落ちついた。


鬱だけでなく、認知症もあった為、伯母は動きも鈍く、食べては寝るだけの別人の様になっていた。

亡くなってから聞いた事だが、トキさんの預けられた施設は、自宅から遠い県外で、(そこしか空きが無かったのだろうと思うのだが、)まるで家族に見捨てられた様な寂しい最後だったという。

預けられてから、一度も家族の誰もトキさんの顔を見に行く人はいなかった。

伯母が亡くなった翌年、息子が突然亡くなったとの連絡があった。
原因は聞いていない。母も教えてもらっていないと言う。


病気というものは家族の人生までも影響を与えてしまうので怖い。健康な時はわからないものだ。

「息子のお嫁さんは、しっかりしているから大丈夫」と聞いて、少し安心した。どんな苦労の連続だったろうか。義両親、旦那さんを看取り、今は大きくなった子ども達と静かに過ごしている。

話は戻るが、この伯母が鬱病を発症したきっかけは、トキ子さん本人から聞いている。

「結婚した事を強く後悔していたこと」だと、トキ子さんは自分で分析していた。






ミキさんがその後どの様に暮しているかはわからない。


ケイさんは、数年後、再婚して子どもさんが1人おられるそうだ。

ミキさんとのゴタゴタは、ケイさんとお母さんの心に今でも暗い影を落としているのは確かだと、友人が話していた。


思いがけない結果になって、お母さんは自分のした事を後悔しているのかなと、もう息子の結婚に口を出す事もないのかなと思った。


実際、今ではお母さんはケイさん夫婦と距離を置いているそうだ。

今度こそ、息子に幸せになってほしいと思う親心か。

と思っていたら、最近の情報が入った。

亜紀の娘さんがお年頃になり、恋人ができた。

娘さんが亜紀の両親(お爺ちゃん、お婆ちゃん)に恋人の話をすると、色々聞かれ、写真を見て、交際に猛反対されたそう。

会ってもいない彼氏の事を、学歴がどうの、職業がどうのと、世間体が悪い相手だと反対されたのだ。

娘さんは怒り、「孫の幸せより、自分の世間体しか頭にない爺さん、婆さんなんかとは一生縁を切る!」と宣言、それ以来本当に一度も亜紀の両親は孫と会えないのだとか。
それでも、まだ反対している亜紀の両親。


失礼な話だが、世間体にこだわるほど、亜紀の家は名家ではない。

いつも「お金が無い」が口癖で、古い狭いアパートに住み、その割にお金使いは派手。

普通の庶民。なぜ、世間体の為に子や孫の人生に口をだすのか理解できない。人を馬鹿にするほど、それほど高いレベルを要求できるほどの家柄ですか?と言いたくなってしまう。


そう言えば亜紀が「私はいち庶民だと思うけど、お母さんが、あなたはお嬢様育ちなんだからエリートと結婚しないといけないって言うのよ。どこがお嬢さまなのよ。私の嫁入り道具も、親には買うお金が無かったくせに。全部私が自分の貯金で準備したのよ。」と言っていた。

亜紀は、高学歴のエリートとは結婚していない。でも真面目で良い人と結婚して幸せになっている。

やはり、最初は母親が反対したらしい。親族が紹介した相手だった為、承諾せざるを得なかったという。

娘がそれでもうまくいったのだから、世間体なんて無意味だと気が付きそうなものだ。


確かに親の立場からすれば、子どもや孫が、安心して生活していける相手と結婚してほしいと願うのは当然だろう。
世間体という言葉が誤解を招いているのかもしれないが、ミキさんを傷つけた事や、まだ未来のある孫の相手の一部だけを見て決めつけ反対するのは、やり過ぎだと思う。


うちの夫みたいに、一見無難な好青年みたいな人に見えて、親も信頼した様な相手でも、豹変して最悪な結婚生活を家族に強いられる場合もある。

「あの時、夫の本質を見抜いて、付き合うのを反対してくれる人がいてくれたら良かったのになあ」と思う私は身勝手だな。


タイムマシンに乗って、自分の歴史を変えたいと思っても、結局ラストは同じでした、歴史は変えられないという事になりそうな気がする。





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