りんごの嘆き

人生の後半もだいぶ過ぎた主婦りんごの嘆き。これからは自分らしく生きる。最後は笑って終わりたい。

2018年06月

 

ケイさんが結婚して1年が過ぎた頃、私は亜紀のアパートを学校の用事で訪ねた。

実家のお母さんが来られていた。挨拶をしたがいつもと様子が違っていた。

私は帰ろうとしたが、引き留められた。

亜紀とお母さんは無理に笑顔を作っている気がした。居心地が悪くて私はテレビを見るふりをした。

無理に笑ってもすぐにお母さんは暗い表情になる。いつもは色々話しかけてくれるのに黙っている。

そこへ電話が鳴った。亜紀が電話をとり、「えっ!見つかったの?今から行くわ!」と叫んだ。

「ごめん、今から母と出かけないといけないの。また今度ゆっくり話すわ。」と言われ、私も一緒にアパ―トを出た。

亜紀とお母さんは、切羽詰まった顔で飛び出して行った。ケイさん夫婦に何かあったのかもしれないと何となく感じた。

私は何も感じていないふりをし、何も聞かなかった。

後日、学校で亜紀が話しかけてきた。

「この前はごめんね。実は、お兄ちゃん夫婦と連絡がとれないと、お母さんが心配してこっちに出てきたの。私が電話しても出ないし、二人で兄の家まで行ってみたの。

そしたら兄夫婦はいたんだけど、ミキさんが私たちの顔を見た途端、家を飛び出してしまって行方不明になってたの。私たちの事が嫌いみたいなんだけど理由がわからなくて。母がショックを受けてあれから元気がないの。」

と説明してくれた。

なぜミキさんがそこまで義実家を嫌うのか、結婚を一時的に反対されたのを根にもっているとしても、結果的には祝福されて結婚できたわけだし。
私には理解できなかった。




昨日久し振りに思い出した人の話。
主人公は、友人、亜紀のお兄さん=ケイさんの遠い過去のお話。

当時、亜紀からケイさんの話題は聞いていたが、人さまのお宅の事情に興味の無かった私は、ただ聞き流していた。亜紀も、そのせいか、全ては話さず、断片的に口にしていた。

かなり年月が経ってから、別の人からケイさんの結婚の詳しい真実を聞き、ショックを受けた。当時、無関心で亜紀の気持ちに寄り添っていなかった事を反省した。


☆では、ケイさんの結婚について話そう。~~~~~~~

ケイさんは、地方から東京の大学に入り、卒業後そのまま東京で就職した。

学生時代にアルバイト先でお客として出入りしていた女子大学生のミキさんと恋愛をした。

ケイさんは、地方の公務員の息子。ミキさんは、有名企業の経営者のお嬢様だった。

ミキさんも一人暮らし。ミキさんの方が熱心にアタックし、ケイさんのアパートに入り込み、同棲をする形になった。

お嬢様なので、お金の使い方も生活ぶりも違っており、ミキさんは世話をやくタイプというよりも、してもらう方、なのでお金以外はケイさんに甘え、頼りきっていた。
ケイさんも、仕送りの多いミキさんに頼る事もあり、お互いに依存しあっていった。

ミキさんは、父親を極端に嫌っていた。交際がばれて、もし反対をしてきたら「親と縁を切る」と言っていた。

大学を卒業後ケイさんが就職すると、ミキさんから結婚を迫られた。彼女は就職せず専業主婦になろうとしていた。

お互いに親族への挨拶を交わしたのだが、両家が反対した。

ミキさんの家では、相手がまだちゃんと稼いでないという事、親が選んだ似たような家柄の人と結婚させたい。娘は所得の少ない生活に耐えられるはずがない。苦労させたくないと。

ケイさんの親は、ミキさんは、経済的な価値観が違うし、働く意志もなく、息子が養えるだろうか、まだ若すぎるのではないかという心配をしていた。

ケイさんは冷静で、一旦延期しようかと考えたが、ミキさんがヒステリックになり、今結婚をしてくれないと何をするかわからないぞ、親子の縁も切ると言いだした。

ミキさんは、ケイさんの親が反対した事を恨み、ケイさんの親族に会っても睨みつけ、誰とも口を利かなかったという。

両家共、激しい反発をするミキさんの態度に負け、結局結婚を許可した。

やはり、式場や引き出物など、女性側の希望のレベルが高く、亜紀の両親は大変だったらしい。

「昨日、母と私とミキさんとミキさんのお母さんとランチに行ったの。ご馳走しますからぜひと誘われて。」

「そしたら、高給レストランで豪勢なフランス料理で緊張したわよ。これがランチ?と思ったわ。母なんか、おどおどしてるから恥ずかしくて怒ってやったわ。ああいう時は、堂々としないとみっともないわよね。」

「こっちは慣れてないから、味も良くわからないけど、向こうはいつもの事みたいで慣れているんだよね。お兄ちゃんは大変な家の人と結婚したんだなあ。と感じたわ。」

と心配そうに話していた。それだけではない。

「新居に行ったらね、家具が凄いの。お兄ちゃんが学生時代に使っていた物は全部人にあげたり捨ててあって、家具は全部高級家具になっていたの。お兄ちゃんの服もよ。
今まで近所のスーパーやお店で買っていたけど、捨てられて、ワイシャツにしても、デパートでブランドの高い物に全部変えてあった。

ミキさんが安物は駄目だと言って。お兄ちゃんは、安月給だからそんなの買えないし、これからどうするんだろう。ミキさんの親に甘えていくなんてそんなの嫌なはず。」

「自分もミキさんの義妹としてうまくやっていけるのか心配」と、亜紀は不安気だった。

最初は「お兄ちゃんがお金持ちの令嬢と結婚した」と、自慢しているのかと思って聞いていた。

会うたび、心配そうに愚痴る事が増えていた。

相手の親の企業が、大物政治家もだしている超有名企業だったので、そこのご令嬢だというだけで、何だか怖いなと私は思っていた。



普段は見ていないのだが、たまたまテレビをつけていて、「徹子の部屋」をちょっと見た。
今日のゲストは安藤和津だった。

奥田瑛二がご主人なのは知られているが、結婚した時からこれまでの「夫に振り回されても妻として頑張って支えてきた苦労話(でも愛しているみたいな)」で有名な芯の強いイメージの人?

(奥田瑛二なら結果成功しているからいいじゃない。娘さん二人共、立派になっているし。)
と思って見ていたら、本当に今は幸せな生活を過ごしている様な話から始まった。

「あんなに外に外にと飲みや遊びに出たがり、引き留めても無視して、子どもの面倒なんか見もしない、家に居つく事のなかった旦那さんが、激変した。」のだそう。

お孫さんが生まれたのがきっかけで、外に出なくなり、お酒もほとんど家で飲むのだとか。

「一緒にスーパーに買い物に行くなんて絶対なかったのに、先日初めて夫婦で夕飯の買い物に行った。
ちゃんと一緒にメニューを考え、食材も選んでくれた。こんな事は今まで無かった。
絶対人は変わらないと思っていたのに、こんなに変わるとは思ってもみなかった。」と和津さんは言う。

しかも、奥田瑛二本人が
「”今までの俺の生き方間違っていた。ごめんなさい。”と言う気持ちになった。」と話したらしい。
お孫さんの純粋無垢な目を見ていたら、そんな気持ちになったそうだ。

正確な記憶では無いかもしれないが、概ね、そんな話だった。

若い時に苦労しても、結果が良ければまだ報われるよね。

話の途中でテレビを消したので、その後の安藤和津の話はどうなったのかはわからないが、そこまでの場面ではそういう内容だった。

確かに歳をとり、体力も衰えてきて、溢れていた自信も無くなって、見渡せば頼れるのは家族だけと気が付くものなのかもしれない。

「あまりに家にいられるものだから、皆で”お小遣いあげるから外で飲んできて”、と追い出してるの。今更家にいられても嫌なのよ。」

「”父帰る”の話って、本当にありますよ。」
と笑って話すところは、納得した。


 ※父帰る」菊池寛作 1917年発表 ●20年前に妻子を捨てて愛人と家出した父が、突然落ちぶれて帰ってくる。母と弟妹は喜ぶが、苦労し一家を支えてきた長男は許さない。家族の複雑な心情と憎しみを超えた愛情を描く。※


もし、我が家でもそんな事になったら、それこそ「父帰る」そのものだろう。
家族の気持ちなんぞ本人は理解できずに、何だかの抵抗をしてくるだろうが。

まず我が家と奥田瑛二の家庭では、比較するのが間違っている。

夫のやってきた実績がまるで違う。

ただ、人は本当に変わるものなのだろうか。という所がひっかかったのだ。

奥田瑛二の場合は本来の人間性に戻っただけなのだろう。本来家族思いの愛情あふれる人なのだろう。家族もそれを知っていたからこそついてきたのだろう。

カッコイイし?

芸能人と比べる事自体が間違ってる?(笑)。

私が聞いてて奥田瑛二を評価したのは「今までの俺の生き方間違っていた。ごめんなさい」のところだ。
私が夫から最も聞きたい言葉だった。これさえ聞いたら全てのストレスが消えてしまいそうな気がする(笑)。

大きな災害の時、私が一番気になるのが、病院の事。
地震が手術中に突然襲ったり、出産中だったら。恐い恐い。

過去、現実にそういう事は起こった訳だし、逃げたくても逃げられないという状況はどんなにか恐怖だろう。

そして患者さんをお世話する医療従事者の方々も自分の事、家族は後回しで必死で責任を全うされようと努力される姿に頭が下がる。


医療に近い介護の世界でも似たような一面がある。

介護施設や老人施設が建物ごと被害にあって多くの方が亡くなられたケースもあった。

 自分は、以前介護の仕事に従事していた時、仕事をしながらいつも考えて居たのは、「今ここで大地震が起きたらどうするか」という事だった。
会社から、緊急連絡網や、利用者の急変についてのマニュアルはあったものの、災害にあった時の対処については何もなかった。たまたまその会社がそうだったのだと思う。

☆建物が倒壊しそうな危機感を感じたら、自分はどうしたらよいのだろうといつも不安だった。


何が不安かというと、自分の身体で、寝たきりのお年寄りを抱えて、階段を下り、安全な場所まで逃げる事ができるだろうかという事だ。

たまにふらついたりする様な、老化の進んだ自分の身体。

かといって、自分だけさっさと逃げる事ができるのだろうか。

「何かあればこの人が助けてくれる」と信じている利用者さん達。

☆研修の時に、質問してみた。

 責任者から「自分の命が優先です。気にしないで自分だけ逃げてください。無理に利用者さんを連れ出そうとすると、もたもたしているうちに逃げ遅れて誰も助からなくなります。」
という答えがあった。

確かにそうだろう。自分もそう思うから悩んでいる。
実際、そんな事ができるだろうか。「助けて!」と叫ぶ利用者さんを見捨てて逃げる勇気があるだろうかと不安は消えなかった。

東北の震災時だったか、現実にそういう事例(利用者と一緒に亡くなった)はあった。マスコミは、「責任感の強さから身を捨ててまで職責を全うしたという美談」にしていた。が、そう簡単な話ではないだろう。

亡くなった職員さんにもお子さんがいて、避難所でお母さんを待っていたはずだ。亡くなった職員さんは、内心家族の事が心配で、一刻も家族の元へ行きたかったと思う。

当時、そんな辛いニュースを見ていて、自分もあんな風になってしまうかもしれないと思った。
そんな時、子どもが強い口調で私に言ってきた。

「お母さん、絶対自分だけ逃げてね!お年寄りには悪いけど、二人共亡くなったら意味ないじゃん。後から遺族の方から文句言われてもいいから、逃げて。仕事のせいで死んでほしくないよ!」と訴えてきた。

その言葉を聞いてから心が落ち着き、覚悟を決めて仕事をする事が出来た気がする。
(これは、その時の仕事の場での話であり、職場それぞれで、違ったもっと良いマニュアルがあると思う。全てがそうだと言う訳ではありません)


今は介護の仕事から離れたが、保育士や学校の先生も同じ、人の命を預かる仕事というのは必ず限界があって、仕方のない事だったとしても、1人でも命が失われると一生自分を責めてしまいそうな気がする。
東北の津波から必死で子どもを抱えて逃げた保育士さん、目の前で流されていく人を助けられずに見ているだけだったという話もあった。

災害のせいで人間の味わう地獄を思うと、改めて自然の残酷さ、怖さを感じる。


大阪北部の地震のニュースを見る度、何とも言えない気分になる。


家が倒壊する恐怖で眠れない方々は多いはずだ。余震があればあるほど、ぐらっときたり地鳴りがしただけでも逃げ出したくなるだろう。


阪神、東北、熊本での避難所の映像に記憶を巡らす。
これまで日本は何度被害に遭ってきたのだ?どれだけの人が被害に苦しみ、どれだけの多くの人々が未だに仮設住宅に住んでおられるのだ?

不便な体育館での生活、トイレの水がでない、食べ物がない、赤ちゃんやお年寄り、病人、障害を抱えているなどの援助が必要とされる人達の苦労。平穏な普通の暮らしを一瞬で失った絶望感と恐怖心。

避難者向けの、何とか居心地良いスペースを準備しておけないものか。

熊本地震の時に、特に感じたのだが、阪神、東北での大災害であんなに避難所が酷い状況になったのに、いまだに何も改善されていないじゃないか。と思えた。

ここは日本だよね?あんなに多額の税金をつぎ込んで、オリンピックをやったり、海外に援助したりする豊かな国だよね?

国民が何度も大きな災害にあっているのに、まだこんな不衛生で過酷な生活をしないといけないの?
日本という国は、地震や大雨でまだまだ被災する可能性はあるのだ。南海トラフも来るとわかっているのだから、もっと災害時に国民が困らないような避難対策にお金を使ってほしいものだ。

そして、ここから個人的な話に移る。

大地震などの災害が起こると電話が殺到し、通じにくくなる。緊急の通報の妨げにもなり、むやみに安否確認に電話を使わない様にするのが常識だろう。

東北地震の時、知人には電話はかけず、メールをしたが、通じなかった。落ち着いた頃、やっとメールで連絡がとれた。

熊本の時も同じだった。(私はあちこちに知り合いがいるもので
そもそも携帯に電話したら、回線が混雑して繋がりにくくなるし、相手の携帯の電池も無くなるわけで、迷惑な事だろう。

知人などの安否確認は、落ち着いてから、手紙のやり取りをすれば良いと思う。親兄弟などの身内なら話は別だけど。

で、夫についてだ。こういう時に人間がわかってしまうというが、何回注意しても聞いてくれない。
熊本地震の時、夫の知り合いが熊本にいた。私は以前から「電話は迷惑だからかけない方がいい」と注意していた。彼の行動が予測できたから。

だが、予測通り、注意を無視して熊本にかけまくっていたのだ。

相手の人は、身内でもなく、普段連絡を取り合う仲でもない。仕事で知り合った顔見知り程度の古い知人だ。
すぐかけたので、最初は電話が通じたらしい。無事を確認して安心して、それで終わればまだ良かった。
その後、同じ人に連続して何回も電話が通じるまでかけ続けた夫。

相手の方には迷惑だっただろう。
回線が通じても相手はあえて電話にでなかった。迷惑をかけている事に気がつかない夫。

「電話にでない!あれから何かあったに違いない!」と騒ぎだした。

仮に知人に何かトラブルがあったとしよう。だからと言って、遠い土地から夫に何ができるというのだ。何もする気もないのに。身内でもないのに、もはやただの野次馬でしかない。

しかも、勝手に妄想し、いかにもその知人が地震の被害にあって亡くなったかのように周りに言い、SNSにも発信し、一人興奮していた。

後から人づてに聞いた事だが、自己愛君が電話をかけまくっていた時、その方はご自宅が半壊しており、避難中で、野次馬みたいな電話をかけてくる人の相手をする暇も気分も無く、電池も無くなりつつあり、大変な時だった。

本当に気にしてくれる人はむやみに電話かけてこない。
この知人は「ご本人は親切でかけてくださったのだろうから感謝しないといけない」と、複雑な気分だった様だ。
後から「ご心配頂き有難うございます。電話にでれずにすみませんと」被害に遭われた人に頭を下げさせた。助けになるどころか余計な気を使わせてしまった。

それでも夫は、相手の気持ちに気が付かず、「いやあ、電話にでないから心配したよ~」と明るい。

更にその後も自宅に住めなくなったその知人に対して、電話を何回もかけた。

「自分も以前東京に出張中に東北の地震を体験した。あの時はひどかった。自分はこんな行動をした。君もこうしたら良いよ。」
みたいに、自分の言いたい事しか言わない。

電話をかけて「心配したよ」と言いながら、相手が状況を話しても聞かず、ただ、「自分の時はこうだった」しか話さなかったらしい。
見舞金を黙って送れば良いものを、一円もださず、口だけだした夫。

何かあった時に、その人がわかる。

夫みたいな人は周りが注意しても変わらない、「善意」の建前で自己満足な行動に走る人だ。

私は別居しているので、目の前で止める事ができない。

被害にあった人しかわからない事がある。謙虚に耳を傾けたい。



大阪の地震で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。


昨日、体調が急におかしくなり、一日休息して過ごした。
平衡感覚が狂っていたのだが、身体全体の状態も普通では無かった。

体温が低いまま、身体が冷たい。くびがぐらぐらする感覚と足に力が入らない感覚。

薬を飲んだら、一日中眠くてたまらず、逆にそれで休めたので今朝は嘘みたいに元に戻った。

1年に1度はこういう日がある。耳や目の疲労だとは思うが、以前からいろんな不定愁訴があって、病院にもあちこち行って、異常なし。

更年期障害もあると思うが、元々体質的に自律神経が弱いのだと思う。
それに夫へのストレスで悪化しやすい。

気圧の影響も受けやすく、昨日も気候のせいかなと思っていた。
それで今朝の地震。

私も昔、大きな地震を体験した事がある。その時も昨日と似たようなふらつきがあった。あのいやーな感覚、似ている。

動物だから危険を察知しての事?まさかね。
ただの不摂生と老化現象だと思っているけど、一応言ってみた(笑)。

以前メニエール病もした事がある、あれは二度と体験したくない苦しさだった。
それ以来生活習慣を改めて発作が起きないよう、気を付けている。

☆メニエール病時の状態
●耳が塞がった感じが続いていた。
●考え事をしていたら、突然頭の中でプツッと何かが切れた感覚がし、目の前がぼやけて耳が遠くなった感覚。動悸がし、激しいめまいが起きた。
●睡眠不足が続いていた。
●心配事があった。
●パソコンで目を酷使していた。

バスの中で一回と、3年後に職場で再び一回発作がおきた。病院に駆け込んで、おさまったのは6~7時間後だった。全く歩けず、吐き気がひどかった。
頭の重さ、眼精疲労がおさまらず、目を動かすと気分が悪くなるので、運転も控えた。
しばらくは、足元がふらつき、力の入らない状態。不安感が残り、外出が怖くなる。

不安感をなんとかする為に心療系のクリニックにいき、軽い薬を少しだけ飲んでいたら回復。薬は持っているだけで安心。

完全に不安感がとれるまでには、年数がかかった。

その後は、頭位性めまい症はおきる事はあったが、メニエールに比べると軽く、回復は早い。

頭位性めまい症
●朝起きた時、頭を動かすとめまいが起きる。
●吐き気はなく、しばらくすると落ち着いてくる。
●内耳の中の耳石がはがれて三半規管に入り込んでしまう事による。
●ホルモンバランスの乱れ、運動不足などが原因、首を動かしたり、寝返り体操をしてはがれた石を流すとよい。

メニエール病も自律神経の異常が原因だが、交感神経が強くなっている時だそう。呼吸も浅くなっているとか。普段から心や体を落ち着かせるにも、腹式呼吸が良さそうだ。

私は最初、恐怖心とショックで過呼吸になっていると医師から言われた。過呼吸というより、自律神経が狂って、手足の冷え、動悸、血圧の上下が同時に起きたような感覚だった。


何回体験しても、嫌なものは嫌だ。めまいは恐怖心との戦いだ。体験した人でないとわからないだろう。


父の実家の相続問題だが、今年の初めから始め、半年過ぎた今、何も進まないどころか、一からやり直しになった。

相続については、どこのお宅でも関わる話だと思うので、これまでの経過を整理してみたい。


●相続財産=古い空き家、田畑、山林、墓、金銭は無し。
●資産価値=ほとんど無し。管理費で赤字。
●相続人=10+△人(何人か亡くなって、子、孫に権利がうつっている家もあり)
●管理人=父が兄弟全員から依頼を受けて、一人で管理していた。
●固定資産税=父が全額負担
●管理費用=父が全額負担、一部叔父

僻地という事もあり、ほとんどの相続人は、遠方の為、めったに訪問することなく、父だけが長年管理してきた。
誰も相続について触れることが無く、だらだらと月日が過ぎた。

父は自分が高齢になり、通えなくなった後の事を気にしており、管理の大変さ、体力、費用の負担の限界を書いて、全相続人に連絡したのだ。
「誰も相続希望する人がいなければ、自分が相続する」旨も伝えた。

●最初にした手続きの流れ
行政書士に手続きを依頼⇒戸籍謄本の収集、相続人の確定⇒相続についての父の手紙、遺産分割協議書、印鑑証明書の送付願い、交通費として幾らかの金額(郵便為替)、返信用封筒を付けて全相続人に送付

1人を除いて、すぐにそれ以外の相続人から、父に相続させる旨の書類が返送されてきた。


ほとんどの相続人から、「これまで(父)だけに管理を任せっきりきりだった事の御詫び。」
「経済的負担も大変だったろうに、長い間きちんと管理して頂いたおかげで、いつでも自分達が訪ねる事ができる。心から感謝する。」
と、お礼の品まで添えて送ってくださったのだ。

これまで不満さえ抱いていた父だったが、この意外な嬉しい反応には感激して泣いていたと母から聞いた。

が、ある相続人の一人が問題だった。
遠方にいる叔父なのだが、手紙がきて、父に譲る、と書いてあった。だが、肝心の書類が送ってこない。気持ちだけなら、相続人全員が父に相続させる事に了承していたが、書類がそろわず、そこから話が進まなくなった。

印鑑証明書の有効期間が3か月の為、父は焦っていた。


あくまで、父の場合の話であり、伝聞でまとめましたので正確さに欠ける事があるかもしれません。あくまで1体験談として参考になればと思います。

米朝首脳会談、成果が何だかはっきりせず、もやもやする。


拉致問題についても、具体的な話の内容がわからずやきもきしている。


拉致と言えば、私の実家の近所のお宅のご長男、高校の先輩の親族の女性も拉致されたまま帰ってきておられない。


ご家族は長い間解決に向けて必死の活動をしておられる。
身近に2人も拉致された方がいると、当時の我が家だって被害にあっていたかもしれないと思えてくる。


思い出せば幼い頃、噂があった。

「新婚旅行中に花嫁さんが突然いなくなった。朝鮮に連れ去られたらしい。」
「海岸で遊んでいた人が、朝鮮に連れていかれたらしいよ。海に行くときは気を付けろ」

と言われた事を覚えている。


当時の自分は幼かったし、まさかそんな事あるわけない、ただの噂だろう、と聞き流していた。
でも、「さらわれる」という事そのものに、かなりの恐怖心を感じた。


今思えば、それは正しい情報だったわけで、子どもの私にさえ耳にする程、真実が知れ渡っていたという事になる。
拉致が行われていた最中のかなり前の情報なのに、当時の国は何をしていたんだろう。


当時、母親が毎朝見ていたワイドショーでは、「行方不明になった子どもを探すコーナー」みたいなのがあって 「 この人を探してください!」「○○ちゃん、帰って来て!  」と毎日次々と必死で訴える親族の姿を流していた。


こんなに家出人、行方不明の人が多いのかと、子どもなりに驚いていた。


その頃、テレビで訴えていた方の中に、後に拉致されていたとわかった親族が結構おられたように聞いた。


拉致されるなんてどれだけ恐怖だろう。絶望を味わった事だろう。
探された家族のお気持ちも想像を絶する。


それにしても、時間がかかりすぎる。ご家族も高齢になられ、本当に一日も早く解決してほしい。



先日の新幹線での事件、やりきれない。誰もが他人事ではないだろう。

新幹線で堂々と痴漢する奴もいる。友人が被害にあった。

サラリーマン風の男性が、席はガラガラなのにわざわざ女性の隣に座ってきて、寝たふりをし、手を動かしてきたらしい。


新幹線も決して油断できない空間だと思う。

国はもっとこういう事の対策にお金を使って欲しいものだ。

そう言えば、夫が、以前こんな事を言っていた。


「出張で東京に行った時、駅の近くの路地で、知らない男にいきなり後ろから棒状の物で背中を突かれた。振り返ると普通のサラリーマン風の男が怒った顔で立っていた。抵抗しようかと思ったが、何をされるかわからないので逃げた。」


それを聞いた時の私は、(彼が何か怒らせたのではないか?)と思ったりしたが、「むしゃくしゃしていた。誰でもよかった。」といって行動する人もいるのだから、理由なく突然!は、ありえる事だ。

その棒が、もし危険な物だったら?ぞっとする。

大騒ぎになって、ニュースになって…。

警察やマスコミから連絡が来て…と我が家は混乱していたのだろうか。

それ以来、何か事件があると、もしかしたら…と一瞬思ってしまう。

恐い世の中になったものだ。自分も子どもたちも、いつ何があるかわからない。



その後、O恵から手紙が何度か届くようになった。


お金の話が多かった。

近所の旦那さんの収入がうちより多いとか、株を買ったとか。
専業主婦で、財テクに励んでいるようだった。


「私の貯金も増えてきたの。絶対生活費には使わないわ。私のお金は私のものよ。主人のお金も私のものよ。お金は全部私が握ってるの」

と書いてあり、一流企業で高収入だからこその財テクが出来て、家庭もうまくいっているんだなと感じた。

我が家の様に、夫の不安定さで、生活の不安なんて全くありえない世界にいた。
しっかり働いてくれるご主人は責任感が強く、後は人生の計画通りにいかに夫婦で頑張るかという意気揚々とした生活の様だった。

そして、一週間に一度は実家に帰って、息抜きしているとの事だった。

結婚の条件をそのまま実行し、ご主人は何も言わず自由にさせてくれていると。
その分、O恵も実家もご主人を大事にしているのはわかる。

その頃の私の生活ぶりなんて、とてもO恵に言えるものではなく、返事には自分の事は書かなかった。我が家の実態を彼女が知ったら、今でも理解できないだろう。そして私に言うだろう。

「どうしてそんな人を選んだの?周りの評判とか収入とか調べなかったの?」と。

彼女が羨ましすぎて、夫に話して反応を見た事がある。

「友人は、実家の近所に住んでいて一週間に一度は帰っているんだって。いいよね~」
と言ってみた。

すると夫は
「何て我儘な嫁なんだ。信じられない。旦那さんはよく黙ってるな。」
ときた。
そして、「エリートとか一流企業なんか僕の友人は皆そうだし、たいした事ないよ。」とひがむ。
自分は気が付いてないのだろうが、とにかく僻みっぽく、嫉妬深い。
なら自分はどうなんだと言いたくなるのをこらえる。

自己愛君は、「妻の実家が旦那を大事にするのは当然のことで、旦那の実家は妻を大事にする必要はない」という姑の考えをそのまま信じている。
自分の考えが無く、ほとんど親と兄から言われた事だけを自分の考えとして言うので、違和感がある。

彼女のご主人と自己愛君では、一家の長としての行動は、天国と地獄の差ほどある。

細かい色々、夫婦しかわからない問題はO恵の家庭にもあるだろうが、それでも、最低限の責任も義務も果たしてない自己愛君に比べれば雲泥の差。


残念ながら私にとって彼女はそういった自分の生活ぶりを話せる友人ではなかった。


その後、年賀状や葉書で連絡がきていたが、順風満帆な結婚生活を過ごしているようだ。

遠く離れた土地から、彼女の幸せが永遠に続きますようにと祈っている。


O恵から学んだ事!☆結婚する時は、自分に正直に、しっかり相手を見て自分が納得できるまでよく考える。(私はもう手遅れだけど)

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