あや子さんと職場の部屋が別になった事で、顔を合わす機会も無くなるし、自然に私の事も忘れてくれないかなと思っていた。流石にアパートには来なくなり、職場でもエレベーター近くで見かける程度で、ほとんど会話する事も無くなった。

このまま彼女が会社を辞めてくれたら…と内心思っていた。

そんな時に、私の隣に座っている上司にトラブルが起きた。上司のトラブルというより、私の部署のトラブルでもあった。

原因はあや子さんだった。
大事な契約を前に、お客様からの来社予約の電話を、たまたまあや子さんが受けており、お客に失礼な対応をしていた。

お客から上司の名前を告げられると「その様な者はうちにはおりません。」と断り、「そんなはずはないはずです」と言われたところ「あなたは私のいう事を信じないのですか?失礼な人ですね!」と彼女が怒ったらしい。
そこから喧嘩の様になり、お客は怒って電話をきってしまった。
「社員教育もできていない会社との付き合いは考えなおそうかな」とお客は不機嫌に。


上司は、そんな事があったとは知らず、相手から連絡が無い事を不審に思い、お客に電話をかけてその顛末を知った。申し訳ありません、と何度も頭を下げ、どうか契約をお願いしますと菓子折りを持って相手先まで急いで行った。

そして、上司はあや子さんに注意した。
赤い顔で怒ってはいたが、感情をおさえて「社会人としてのマナーを勉強し直せ。君の対応で会社が損害を受けるところだった」と訴えた。
入社時に、先輩が指導したのだが全くだめだった。言っても無駄な人。

でも、注意しない訳にはいかない。

するとあや子さんは、ニヤッとしてこんな事を言い返したのだ。

上司に対して「あなた、そんな事私に言えるの?そんな資格あるの?私は知っているのよ。フフツ。あなたは独身の時、もてていたそうですね。社内で何人の女性に声をかけたの?あなたにもて遊ばれた人いたんでしょう?ばらしましょうか?」

「はあ?何を言ってるんだ?正気か?」と上司は驚き、というより恐怖を覚えて「ああもうダメだ。こいつおかしい」とその場を離れた。

この上司は、確かに過去にもてたらしい話は聞いたことがあった。でも、あや子さんの話は妄想にすぎなかった。仮に事実としても、そういう脅迫めいた事を言う事自体がありえない。

その件があり、流石に「彼女を病院で治療させた方が良いのでは」ということになり、上役がやっと動きだした。
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彼女の父親が頼んできたのは、こういう事だったのか。
大学ももしかしたらコネとかお金の力で?それとも途中からこうなったのか、とにかく普通じゃない娘に手を焼き、友人に頼んで採用してもらったということだったと言う訳だ。

何故、彼女はそんな風になったのだろう。先天性の病気なのか、家庭環境などで人格に歪みが生じたのかわからない。

彼女は私の前ではまともに振る舞っていた。今思い出せばよく口にしていたのは「父が嫌い。憎い。あんなやついなくなればいい」とお父さんを異常に嫌っていた。

父親との関係が何か原因になったのか、よくわからない。幼児期に虐待を受けて自己防衛の為に嘘をついたり、妄想を抱く様になったりしたのかもしれない。わからないがそうだとしたら不幸な事だ。

あや子さんは、上役に呼び出され、辞める事になった。上役はくびとは言わず、上手におだてて辞めるように仕向けたらしい。1年我慢して置いてあげたからもう義理は果たしたという判断か?

私宛に、あや子さんから手紙が届いた。

「私は会社を辞める事にしました。理由は、私はこんな会社でくすぶっている様な人間じゃないことに気が付いたからです。私は弁護士になることにしました。これから試験を受けるつもりです。私は本来、弁護士になるべき人間だったのです。未来が明るくなってとても幸せです。こんなさえない会社、りんごさんも早く辞めた方がいいですよ。では、さようなら」
みたいな内容だった。

彼女らしいなあと笑った。怨みつらみが書いてあったら怖かったけれど、ポジティブならいいじゃんとホッとした。個人的な被害妄想でストーカーの様になるパターンの人格じゃなかったことが救われた。

会社の人に「彼女は誰も恨まず、明るい気持ちで次の目標をみつけて辞めた様ですよ」と報告した。

皆、苦笑しながら、ホッとした顔で、久し振りの心からの安堵感で職場の雰囲気が再び元通りになった。たった1人の為にこんなにも全体の雰囲気が変わるのかとこの件で学習させられた。

「彼女のいた1年間て、何だったんだろう。何だか嵐みたいな日々だったね。ああいう人には一生に何度出会うだろうか。もう2度と出会いたくないね。」

と上司が言うと皆「うんうん」と頷いていた。

うちの夫もここまでではないが、あや子さんに似たタイプかもしれない。明らかに違う点は、親を嫌わず教祖化し、異常に執着していることか。

あや子さんは父親が嫌いだと人に言えた事が、夫より救われている気がするのだが…。